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寿司は、世界中で有名な日本料理です。「寿司」、「すし」、「鮨」、「寿し」など、いろいろな表記がありますが、主に魚介類と酢飯を組み合わせた日本料理です。寿司には、酢飯の上に具材を載せて握った握り寿司の他に、ちらし寿司、押し寿司や巻き寿司など、色々な種類があります。
「すし」の語源は、江戸時代中期に貝原益軒が記した「日本釈名」(元禄12年(1699)成立、翌年刊行)や、新井白石が記した『東雅』(享保2年(1717)成立)に記載されている、「その味が酸っぱいから「酸し(すし)」である」とした説が有力とされています。 「すし」に関する記録は古くからあり、奈良時代の文献に載っているそうです。この頃のすしには、「鮓」という字が当てられ、魚貝類を塩漬けにして発酵させた料理を指していたようです。発酵させる事によって自然に酸味が生じて味が良くなり、保存も効くようになります。魚の漬物のようなもので、保存食として食べられていたようです。 この古代のすしは、熟成させるのに2~3ヶ月もかかっていたようです。その後、平安時代の頃、米を加えて熟成を早める方法が考えられ、甘酢で味付けした米飯に開いた生魚を載せて一晩寝かせたすしが作られるようになったようです。米飯を一緒に漬ける事で、米飯に含まれるデンプンなどの働きによって発酵が早くなり、味も良くなるという効果がありました。この頃は、米飯は発酵のためだけに用いられていて、食べるのは魚貝類の部分だけだったようです。 このような寿司は、現在でも近江地方に伝わる鮒ずし(ふなずし)、ハタハタの漬け込みずし、サバのイズシなどに受け継がれています。このように、魚介類に米を加えて乳酸発酵させた寿司は、「なれ鮨(なれずし)」と呼ばれています。 一方、にぎり寿司が生まれたのは、江戸時代末期(19世紀初め)頃の江戸のようです。握りずしの考案者は、両国の「與兵衛鮓(よへいずし)」の華屋與兵衛とも、安宅の「砂子鮨(いさごずし)」の堺屋松五郎とも言われており、明確な資料はないようです。しかし、文政12年(1829年)に発表された「柳多留」に「妖術という身で握るすしの飯」(1827年作句)という俳句が載っていることから、1827年には一般的に知られていたと考えられます。 與兵衛のひ孫、小泉清三郎「家庭鮓のつけかた」に、與兵衛の孫、文久子「またぬ青葉」の引用があり、その要約は「以前にも握りずしを試みた者はいたが、握った後に笹で仕切って箱に詰め数時間押しをかけるすしで、翁(初代與兵衛)は押しをかけることを嫌い、握ることのみで製する「握早漬」を創った」とのことだそうです。與兵衛が「握早漬(握りずし)」を売り出した年は、諸説ありますが、文政7年(1824年)頃だとされています。 一方の堺屋松五郎の方は、喜多村信節が文政13年(1830年)にまとめた随筆、「嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)」に「文化(1804~1817年)の初め頃、深川六軒ぼりに、松がすしが出来て、世上すしの風一変し」との記載があるそうです。この記述から、それまでの上方風のすし(なれずし)が中心だった寿司が、握りずしに「一変した」と読み取ることを根拠とするようです。 この「松が鮓(まつがすし)」は、松浦静山の随筆、「甲子夜話(かっしやわ)」(文政4年(1821年)~天保12年(1841年)まで)にも記載があるそうです。「近頃、大川の東、安宅に、松鮓と呼ぶ新製あり。松とは販(う)る人の名なり。此佳味、一時、最賞用す。この鮓の価、殊に貴く、その量、五寸の器、二重に盛て、橢金3円(小判3両)に換ふとぞ。これを制するもの、鮓、成て、これを試食し、その味、意に適はざれば、輙(すなわち)、棄てて顧みずと云。この如く貴価の品、今に行はるるも、亦、世風を観るべし」との記述で、「松が鮓(まつがすし)」が非常に高価な寿司であったとの記述です。このため先ほどの文献も、「早ずし(握りずし)に一変した」とは記述されていないことから、「普通に食べらていたすしが、高級料理として一変した」と読むこともできるようで、松五郎が握りずしを考案したかどうかは分からないようです。 この「松が鮓(まつがすし)」は、「松鮨」とも、「松之鮨(まつのずし)」とも言われたようですが、これは「安宅の松」と、主人の名、堺屋松五郎にちなんだ通称であって、本来の屋号は「砂子鮨(いさごずし)」なのだそうです。ただ、後に屋号の方も「松之鮨」と改めたとのことです。 このほかにも、江戸時代中期の延宝年間(1673~1680年)に江戸の四ツ谷に住んでいた幕府の御典医である松本善甫が握りずしの考案者だとする説などがありますが、いずれにしても、握りずしは文政年間(1818~1831年)には完成されていたようです。 この「握りずし」は、「なれずし」とは異なり、すぐに食べられる事から「はやずし」とも呼ばれ、江戸中で流行したようです。当時は、屋台料理として庶民に広まって行ったようです。また、このにぎり寿司は、東京湾(江戸の前)でとれる魚介、海苔を使うことから「江戸前寿司」と呼ばれるようになったようです。 この握りずしは江戸だけでなく全国に広がっていき、天保(1831~1845年)には、名古屋にも江戸風のすし店が開店したそうです。また、箱寿司が主体であった大坂でも、1892年(明治25年)には、ほとんどの店が握り寿司に変わったとの記録が残されているそうです。 ブログランキングに参加しています!応援お願いします! → ![]() アロエの化粧水で潤いのある若々しい素肌に 今すぐ30分間無料体験!ライブチャットマックスライブ PR |
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