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CATEGORY[横浜]
コメント[ 0 ] 2014年01月12日09:36
 つけ天とは「天ぷらをつけたつゆで食べる盛り蕎麦」のことだそうです。これは、横浜市にある「角平」という蕎麦屋さんが始めた料理だそうです。
 「角平」は、横浜市西区平沼にある蕎麦屋さんです。「角平」のウェブサイトによると、戦前はカツ屋を営んでいたそうですが、1950年(昭和25年)に先代の女将、藤江婦美子が蕎麦屋、「角平」を創業したそうです。平沼商店街の端にあるお店で、「平沼の角にある」ことから店名を付けたそうです。
 この初代は、蕎麦を愛していたそうですが、日頃から「盛り蕎麦ではもの足りないが、天ぷらソバでは蕎麦が死んでしまう。」と考えていて、「シコシコとした蕎麦と衣がふやけずにおいしく食べられる天ぷら(海老も蕎麦も活きる料理)」の研究を続けていたそうです。その結果、「蕎麦と熱い汁を別々にする」という発想が生まれ、現在、「天ざる」や「天せいろ」の祖となる「つけ天」が誕生したとのことです。
 しかし、当初、店の職人は「邪道だ」と大反対していたそうです。このため、賄いとしてや、知人だけに食してもらっていたようですが、美味しいという評判が広がっていったそうです。そして、満を持して、昭和35年にメニューに加えたところ、たちまち評判になったそうです。
 日本麺類業団体連合会および、全国麺類生活衛生同業組合連合会のウェブサイトによると、温かいかけそばに天ぷらをのせた「天ぷらそば」は江戸時代からあったそうです。一方のもりそばと天ぷらを組み合わせた「天もり」は昭和に生まれたメニューとの説明があります。
 「つけ天」が「天盛り」、「天ざる」や「天せいろ」などの元となったのかは分かりません。天麩羅をかけそばに乗せた天ぷら蕎麦が江戸時代からあったというのはすごいことです。ただ、熱いつゆの中に蕎麦と天ぷらを入れるため、料理としての天麩羅よりも衣が厚くなっています。これは、厚い衣に汁が染み込んで丁度良い味になるようにしてあるとか、煮込んでも衣がはがれないようにしたためとも言われています。しかし、料理としての天ぷらの方が美味しいのが事実だと思いますし、昭和になって豊かになった時、美味しい蕎麦と美味しい天麩羅を食べたい、という要求が起こって、いろいろなお店で「天盛り」、「天ざる」や「天せいろ」などが生まれたとしても不思議ではありません。
 しかし、云われが明確で、生まれた当初の理念が今も生き続けている「つけ天」は、一度、食べる価値があると思います。
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CATEGORY[横浜]
コメント[ 0 ] 2013年05月19日10:22
 あまり有名ではないかもしれませんが、横浜の名物だそうです。私が大学に入学した時、大学の構内にある学生食堂に、このメニューがあり、初めて、この料理名を見ました。その時、「サンマー麺?秋刀魚が乗っているのか?それとも、秋刀魚で出汁をとった麺なのか?」と不思議に思い、好奇心にかられて注文したところ、醤油ラーメンの上にモヤシを中心とした具(ほとんどがモヤシで、非常に僅かのニラと豚肉があったような気がします)が乗っていて、さらにトロッとしたアンがかかっていたラーメンで、美味しかったことを覚えています。大学の知人や友人に、名前の由来を聞いたものの誰も知らず、「横浜名物だよ」という情報しか得られませんでした。
 それから25年以上が経ち、現在では、インターネットで簡単に色々なことが調べれられるようになりました。便利な世の中になったと実感しています。
 そこで、サンマーメンをインターネットで調べてみると、名前の由来は不明なようです。現在では、「生碼麺」、「生馬麺」、「三碼麺」などの漢字をあてている店が多いようです。学生時代に見たのは、カタカナ表記か、「生碼麺」だったような気がします。
 ネットでの情報では、「細麺を使った塩ラーメンか醤油ラーメンの上にシャキシャキのモヤシを軽く炒めて、片栗粉を溶いたアンを絡めて乗せた麺料理」との説明が多いようです。簡単に言うと「あんかけモヤシラーメン」という感じでしょうか。また、「横浜の名物」とも、さらに広く「神奈川の名物」ともありましたが、いずれにしても横浜近郊の神奈川県で有名な料理のようです。
 語源については、色々な説が語られていましたが、発祥としては、横浜の伊勢佐木町にある玉泉亭という説と、横浜中華街の聘珍楼という説の2つが有名なようですが、どちらが発祥かは明確になっていないようです。
 「聘珍樓」の西崎総料理長によると、「昔、物資が少なかった時代に、手に入りやすいモヤシと豚肉を使って工夫された料理がサンマーメンなんですよ。」だそうです。さらに西崎氏によると、「昭和5年に聘珍樓の先々代のオーナーが考案しました。海や山の自然の幸を何でも吸収してしまう広東料理の流れを汲んでいます。」とのことです。
 一方、「かながわサンマー麺の会」の張学金会長によると、元々のサンマーメンは、モヤシもトロミもない「まかない食」だったそうです。語源は「生碼麺」で、中国語だそうです。「碼」は、もともとは波止場の意味だそうです。サンマー麺は、元々は、港町で食べられていたラーメンの総称だったそうです。具は白菜が中心で、新米のコックが細切りの練習をするのを兼ねた賄い食だったそうです。
 このため、当時は野菜の細切りが具のメインで、モヤシもトロミもなかったそうです。戦後、物資難の中で満腹感を得たかったため、広東麺の餡を応用してトロミをつけるようになったそうです。デンプンは腹持ちがいい上に、調味料を多く使わない薄味でも麺に絡んで濃く感じるので重宝したそうです。
 また、具がモヤシになっていったのは、当時、中華街の市場通りにモヤシ工場があったので、入手が楽だった事が原因ではないか、とのことでした。
 近年では「生碼麺」という文字も、「上に乗せる」という意味の「馬」を使って「生馬麺」と書くお店が増えてきたようです。
 張学金さんによれば「聘珍樓が発祥」という説についても正しいと思って良いようです。賄い料理だった生碼麺を「お客に出す料理として改良して提供した」という点で、今のサンマーメンの発祥として正しいとのことです。
 また、店によって色々なバリエーションがあることも特に問題とは考えていないようです。客の好みや、店主のこだわりで変えるのが実情で、かながわサンマー麺の会でも、味については決めていないそうです。「具は5種類以上使う」と決めているだけで、それ以外は、特に決まりがないそうです。
 結局、サンマー麺とは、横浜のいろいろなお店の賄い料理を改良してできた麺料理だということでしょう。「かながわサンマー麺の会」では、正式な「サンマーメン」とは、「野菜を多く使ったトロミのある優しい味のラーメン」と定義しており、それ以外の決まりはないようです。
 是非、横浜に行ったら、横浜名物、サンマーメンを食べたいですね。きっと、いろいろなお店で、いろいろな味を見つけることができるでしょう。


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CATEGORY[横浜]
コメント[ 0 ] 2013年04月14日21:30
 これは、中華料理の焼売でもシューマイでもありません。正式名称が「シウマイ」という日本の料理です。と言っても、もちろん、元は中華料理の焼売で、横浜市西区に本社がある(株)崎陽軒の商品名です。
 崎陽軒は1908年(明治41年)4月に創業した食品会社です。4代目の横浜駅長だった久保久行が、退職後、後輩の高橋善一(後の東京駅長)の働きによって、妻である久保コト(旧姓、野並)の名で、横浜駅構内営業の許可を受けて創業したのが始まりだそうです。ちなみに、当時の横浜駅とは、現在のJR、桜木町駅です。当時は、駅構内に開いた売店ということで、牛乳、サイダーなどの飲み物と、寿司や餅などを売っていたそうです。
 1915年(大正4年)、横浜駅が平沼材木町に移転したのに伴い、匿名組合崎陽軒と改組し、支配人として大塚浅太郎が就任したそうです。この時は駅弁の販売を始めており、上弁当が25銭、並弁当15銭、お茶4銭だったそうです。半年後、大塚が過労のため体調を崩し、野並茂吉が新しく支配人に就任、さらに1923年(大正12年)5月15日には匿名組合から合名会社に法人化したそうです。
 野並は、小田原には蒲鉾、沼津には羽二重餅、静岡にはワサビ漬、浜松にはウナギというように、土地ごとに名物があり、有名になっていたものの、崎陽軒には特色がないことを心配していたそうです。そこで、久行の孫である久保健と一緒に横浜名物を作ろうと考えたそうです。
 1927年(昭和2年)、当時、有名になっていた横浜南京街(現在の横浜中華街)を食べ歩いていた時、どこの店でも突き出しとして出されていた「シューマイ」に目をつけたそうです。汁がないため弁当の折詰に適していたものの、やはり熱々が美味しく、冷めてしまうと、とても食べられる物ではなかったそうです。
 そこで、南京街の点心職人だった「呉遇孫」をスカウトし、改良を重ねた結果、1928年(昭和3年)3月、豚肉と北海道産の帆立貝の貝柱でねり合わせた、冷めても美味しいシウマイが完成したそうです。大きさも、揺れる車内でこぼさないで食べられるように一口サイズにするなど、工夫したそうです。グリーンピースが上に乗っているのではなく、中に練り込んであるのも、グリーンピースが焼売から落っこちてしまわないための工夫だろうと思います。当時は1箱(12個入り)、50銭だったそうです。
 発売当時はあまり売れず、横浜名物として全国に知られるようになるのは、戦後になってからのことだそうです。1950年(昭和25年)に「シウマイ娘」が登場すると、加速度的に知名度が上がり、販売数量が増えていったそうです。ちなみに、シウマイ娘とは、横浜駅のホームでシウマイを販売していた女性販売員のことです。赤い服を着て、タスキをかけ、手籠にシウマイを入れて「シウマイはいかがですか」と車窓から売り歩くスタイルで、当時は大人気だったようです。
 崎陽軒は何故、「シューマイ」でも「焼売」でもなく「シウマイ」と表記するのでしょうか。これは開発した野並茂吉の発音によるそうです。野並茂吉が「焼売」のことを「シューマイ」でもなく、「シュウマイ」でもなく、「シウマイ」と言っていたそうです。そこで、この「シウマイ」に「旨い」もかけて、「シウマイ」とすることにしたそうです。
 冷めても美味しいシウマイですから、これを活かして、1954年(昭和29年)には、シウマイが入ったシウマイ弁当も発売されました。駅弁としての「シウマイ弁当」も有名になっていったようですが、私としては「シウマイ」を買ってきて、家で食べるのが好きです。冷めても美味しいですが、温かくても、もちろん美味しいです。これがビールに合うのですよね。現在は、関東地区であれば、駅やデパートなどで購入できるようです。横浜の御土産としても、普段の食事にも最適な一品だと思います。
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