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CATEGORY[日本]
コメント[ 0 ] 2019年03月17日14:12
 たい焼きとは、魚の鯛を形とった金属製の焼き型で焼いて作られる食べ物です。一般的に小麦粉を中心として作られた生地を、鯛をかたどった焼き型に流し入れ、小豆餡を載せ、もう片側は生地だけを入れ、合わせて焼きます。
 岡田哲氏の「たべもの起源事典、p.275~276(東京堂出版、2003)」によると、1909年(明治42年)創業の浪花家総本店の初代神戸清次郎が創作したのがはじまりとされています。その経緯は「今川焼きを始めたが一向に売れず、亀の形の亀焼きも失敗する。ところが、めでたいタイの姿にしたところ、(略)飛ぶように売れたという」と紹介しています。
 また、「東京たいやきめぐり、p.8(バナナブックス、2007)」の「たいやき事はじめ」には、(関西から東京に出てきた)神戸清次郎が「焼き物の菓子をはじめる」とあり、その際に焼型として鯛を選んだとしています。なお、なぜ鯛型にしたかについては、「鯛は「めでたい」で縁起物につながる。そして、ほんものの鯛は庶民の口になかなか入らない高級品であった、それを模した」ことを理由としています。なお、誕生の地について同書に「東京麹町で誕生した。」とあり、現在の麻布十番に店舗を構える「浪花家総本店」の始まりとしています。
 もともとは今川焼(大判焼き)だったものが、形を変えたようです。以前までは中に入れる具は「あんこ」と「クリーム」が主流でしたが、最近ではチーズ、チョコレート、じゃがいも、ツナなどの変わり種のタイ焼きが売られているようです。また、小麦粉の代わりに米粉を用いた「白いたい焼き」も売られています。
 名前に「鯛」が付いていますが、たこ焼きは中に蛸が入っているのに対し、こちらは形以外の共通点は無く、材料にも使われていません。

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コメント[ 0 ] 2018年07月22日12:10
 小倉アイスとは、小倉餡を混入したアイスクリームやアイスキャンディーのことです。小倉餡とは、小豆の漉し餡に、蜜漬の小豆をまぜた餡です。元々は、煮崩れしにくい大納言種の小豆の粒餡と粒の小さい普通小豆のこし餡を混ぜたものでしたが、近年では、粒餡の事を小倉餡と言う場合もあるようです。
 この小倉アイスは、東京、湯島にある甘味処みつばちが発祥で、1915 年(大正4年)に発売されたのだそうです。
 「みつばち」は、創業1909年の甘味処です。1915 年(大正4年)、氷小豆の残った種をアイスクリームを作る桶に入れておいたところ、翌日には周りが凍っていて、予想外の美味しいものができていたそうです。そこで小豆を入れて、本格的にアイスクリームを作ったところ、非常に美味しいアイスクリームができたそうです。
 色々な人に試食をしてもらったところ、非常に評判が良く、売り出すことを決め、名前について考えたそうです。当時、既に小豆の羊羹があり、小倉羊羹と呼ばれていたことから、小倉アイスにしたらどうかという助言があり、「小倉アイス」に決まったそうです。
 添加物を使用せず、小豆、砂糖、水と少量の塩だけで作られている小倉アイスは、豆の風味がしっかりと生きた味です。ミルクやクリームなどの乳脂肪分を加えていないため、さっぱりした味にまとまっています。
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コメント[ 0 ] 2017年04月06日15:20
 日本でのポテトチップス製造の元祖は、ハワイでポテトチップスの製造を学んだ浜田音四郎(明治44年11月生まれ)氏だそうです。浜田氏は終戦後、ハワイから帰国し、故郷で数年過ごした後、上京しました。
 当時の日本の食糧事情の酷さに驚き、ハワイにいる時に作り方を覚えたポテトチップスを製造、販売する会社を興すことを決意し、昭和23年に牛込納戸町に小規模のバッチ式手揚げの「アメリカン・ポテトチップ」と言う会社を設立し、「フラ印」として販売を開始しました。これが、日本でのポテトチップス製造の元祖です。
 当初は、北海道のジャガイモを原料に使用し、新宿と市ヶ谷で売り出したそうです。当時は35gで36円だったそうです。この頃は、主にアメリカ軍のキャンプに納品していたそうです。当時の日本人には、ポテトチップスの美味しさは理解されず、全く見向きされなかったそうです。
 そこで浜田氏はビヤホールやホテルなどを回って宣伝に努め、ビールのつまみとしてPRした結果、1年後には順調に売れるようになったそうです。
 昭和30年代には高度成長経済と食の欧米化の波にも乗り、ポテトチップスもスナックとして多くの日本人に知られるようになっていきました。ここで忘れてはならないのは、浜田氏は、ポテトチップスの製法を秘密にしなかったことです。むしろ、多くの日本人に教え、その方々がポテトチップスを販売することによって広く普及していきました。この結果、現在では、ポテトチップスは大人から子供までに好かれるスナック菓子にまで成長しました。
 濱田氏は、事業以外でも様々な活動、活躍をされた方だそうです。昭和23年には「日本ハワイ協会」の設立に参加(昭和33年には第五代会長に就任)し、ハワイと日本の交流に力を尽くしました。大相撲の初の外国出身の関取である高見山を日本に紹介したのも濱田氏だそうです。また、日本赤十字社をはじめ、多額の寄付を通じ社会貢献にも熱心に力を入れておられます。
 こんな浜田氏の活動によって、日本でポテトチップスが広く知られ、食べられているのですね。感謝感謝、ホイ。


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コメント[ 0 ] 2017年01月03日13:31
 焼き蕎麦は、「蕎麦」を「焼いた」料理に思えますが、その名称と異なり、実際には蕎麦を焼くことは少ないようです。絶対に無いとはいえませんが、一般的ではないと思います。ここでの「蕎麦」は、「麺」と同じ意味で、焼いた麺料理という意味になるのだと思います。
 一般的には、生の中華麺(小麦粉にかんすいを入れて打った麺)を茹でて蒸した麺、いわゆる「蒸し中華麺」を豚肉や牛肉などの肉類、キャベツ、人参、玉ねぎ、モヤシなどの野菜、イカなどの魚介類などと一緒に炒め、味付けして作る麺料理です。味付けは、ウスターソースを使用したソース焼きそばが、一般的ですが、塩を使った塩焼きそばなどもあります。
 焼きそばの発祥については、はっきりしていないようです。麺が、いわゆる中華麺であることから、中華麺が日本に入ってきてから作られた料理と思われます。日本に中華麺が伝わったのは幕末のようです。中華系の人々によって、その技法が持ち込まれ、各地の中華街を拠点に広まっていったようです。明治末期には「支那そば」の名称で、いわゆるラーメンのような料理が普及していたようです。しかし、まだ焼きそばは普及していなかったようです。
 しかしながら、中国料理には「炒麺(チャオメン)」と言う、中華麺を炒めた料理があります。中国では紀元前10世紀から、麺が食べられています。このため、スープと一緒に食べる麺料理だけでなく、炒麺も古くから食べられていました。一説には、春秋戦国時代の頃から軍隊食として食べられていたという説もあります。中国では古くから、炒麺も一般的な料理の1つになっていたと考えられます。
 その中華麺が日本で広まったのは1923年(大正12年)に起きた関東大震災という説があります。焼け野原と化した町にラーメンの屋台が立ち並び、人々の胃袋を温めたそうです。これを機にラーメン(支那そば)が普及していったようですが、焼きそば(炒麺)が普及するには、まだ時間が必要だったようです。
 ラーメン(支那そば)の普及には、麺の発展も関係しているようです。1924年(大正13年)にカン水の業者が横浜と東京の深川に開業したそうです。それまでの中華麺にコシをつけ、歯ごたえという食感をプラスした新しい中華麺を作ったことが、中華麺の普及につながったとも言われているそうです。ただし、当時は、流通、保存の点を考えると「乾麺」であったと考えられます。乾麺が主流であったとすると、一度、茹でてから焼くという手間を考えると、焼きそば(炒麺)は、ラーメン(支那そば)ほどは普及しなかったと考えられます。
 東京の浅草にある「浅草染太郎」は、1937年(昭和12年)から続く老舗のお好み焼き屋さんです。1939年(昭和14年)から連載が始まった高見順の小説「如何なる星の下に」には、「浅草染太郎」をモデルにしている「惚太郎」というお好み焼き屋が登場します。この店では、客は大きな火鉢に鉄板を載せ、めいめい勝手にお好み焼きを焼いています。部屋の壁は、品書きが掲げられており、その中に、いかてん、えびてん、あんこ巻きなどに交じって「やきそば」が5銭とあります。このことから、戦前には、お好み焼き屋で焼きそばが提供されていたことが分かります。
 また、小菅桂子氏が1994年に出版した「にっぽん洋食物語大全(講談社+α文庫)」には、「年配の中国人の料理人の中には、ソース焼きそばを浅草焼きそばと呼ぶ人もいる」と書かれています。このことから、「ソース焼きそば=浅草焼きそば」だったこと、昭和10年代には、浅草のお好み焼き屋に焼きそばというメニューがあったことが分かります。すなわち、ソース焼きそばは、昭和10年代には、誕生していたと考えて間違いないと思います。
 しかし、その焼きそばが広く普及したのは、終戦後のようです。第2次世界大戦中は、ほとんどのソースメーカーが製造を中止していたようです。終戦後、各メーカーが製造を再開したことから、闇市でうどんや雑炊といった食べものと一緒にソース焼きそばも売られるようになっていったようです。闇市で食糧を買って、家に帰ることを考えると、同じ中華麺の料理でも「支那そば」よりも「焼きそば」の方が便利だったのではないでしょうか。
 1950年(昭和25年)頃には、粘りのある濃厚ソースが登場し、甘くこってりとした濃厚なウスターソースで味つけされた焼きそばが広まっていったようです。
 さらに1951年(昭和26年)頃、台湾の「ビーフン」の食感を求めて開発された「蒸し麺やきそば」は簡単に調理ができ、保存性に優れている麺として人気を博しました。この麺とウスターソースの出会いが焼きそばの普及につながっていったようです。
 1955年(昭和30年)頃には、駄菓子屋で焼きそばが提供されていたようです。当時は、子供のおやつとして評判を呼んでいたようですが、時代を経るにつれ、次第に家庭でも食べられるようになっていったようです。
 1963(昭和38)年には、日清食品がインスタント麺「日清焼そば」を発売しました。これは、フライパンに水と麺を入れ、添付のソース味粉末をかけ、水分を蒸発させれば出来上がりという手軽さで非常に好評で、発売直後から爆発的ヒットしました。現在では、いろいろなメーカーが、様々な種類のインスタント焼きそばを販売しています。
 現在では、バーベキューや鉄板焼きなどの際の料理のほか、ご当地グルメとして日本各地で独自の調理法や材料を使用するなど、特徴を持った焼きそばが作られています。


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コメント[ 0 ] 2016年11月23日17:46
 大分県日田市の御当地グルメと言われている焼き蕎麦です。一般的な焼きそばは、生の中華麺(小麦粉にかんすいを入れて打った麺)を茹でて蒸した麺、いわゆる「蒸し中華麺」を豚肉や牛肉などの肉類、キャベツ、人参、玉ねぎ、モヤシなどの野菜、イカなどの魚介類などと一緒に炒め、味付けして作りますが、日田焼きそばは、鉄板上で一部が焦げるほど硬めに焼く点が大きな特徴です。
 これは、1957年(昭和32年)6月に大分県日田市で創業した想夫恋(そうふれん)の初代である角安親が「焼いた麺料理はないものか」と考え、試行錯誤の結果、生み出した独自の焼きそばです。角安親は、通常の焼そばは、たくさんの野菜と一緒に麺を炒めていることから「五目炒めそば」だと思ったそうです。そこで本当の「焼きそば」を作ろうとしたそうです。そこで、両面を少し焦げ目がつくくらいまで、しっかりと麺を焼きます。表面はカリッとキツネ色に焼きあがり、中は柔らかいままジューシーに仕上げるのが特徴です。
 この表面がパリッとして中がジューシーという焼きそばは人気となり、日田市内のラーメン店を中心に似たような焼きそばを提供する店が増えたそうです。さらに日田市内で焼きそばが流行った影響で、周辺の都市や福岡県にも日田風の焼きそばを出す店が存在するそうです。
 ちなみに「日田焼きそば」、想夫恋の登録商標(第5238962号、2009年8月27日登録)です。このため、他の店では「日田やきそば」と表記されているようです。現在では、2012年(平成24年)に発足した「日田やきそば研究会」が中心となって「日田やきそば」のPRに努めているようです。


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