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コメント[ 0 ] 2016年09月12日12:07
 ラヂヲ焼きは、昭和8年頃、「ちょぼ焼き」に関東煮の具材として用いられていた牛スジ肉やコンニャクを入れたことで始まった料理だそうです。現在の「たこ焼き」のルーツとされています。現在のタコヤキの具をタコから牛スジ肉やコンニャクに変えたものと思えば良いようです。
 「ちょぼ焼き」とは、水で溶いた小麦粉を半円に窪んだ物が並んだ金板に流し、そこにコンニャク、紅ショウガ、えんどう豆や醤油を入れたり、ネギや鰹節をまぶしたりしたものを、上下2段になった箱型のカンテキ(七輪)で焼いた食べ物だそうです。
 当時、ラヂオは、高価で、かつハイカラの象徴だったそうです。そこで、新しいハイカラな料理という意味でラジオ焼きと呼ばれるようになったようです。また、一説では、ラジオの丸いダイヤルにちなんで、ラヂオ焼きと名付けられたとも言われているようです。さらに、その店に、当時はまだ珍しかったラジオが置かれていたため、ラジオ焼きと呼ばれるようになった、という説もあるそうです。
 当時は、大阪の子供たちのおやつとしてラヂオ焼きが親しまれていたそうです。関西の水は軟水で、昆布などの旨みが出やすいため、ダシを使った食べものが流行ったようです。甘く煮た牛スジ肉、コンニャク、ネギなどが入っていて、箸ではなくて2本の爪楊枝で食べていたようです。
 このラジオ焼きを改良したものがたこ焼きで、大阪の会津屋の創始者、遠藤留吉さんの発明のようです。タコ焼きは、全国、どこでも食べられるくらい普及していますが、ラジオ焼きのお店は、あまり見かけません。材料費の問題か、手間の問題なのか、不思議なことです。現在でも大阪では、ラジオ焼きがたこ焼き屋のサブメニューとして提供されていることがあるようです。

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コメント[ 0 ] 2016年02月14日19:11
 うどんとは、小麦粉に少量の塩水を加え、こねたものを麺状にした麺食品です。茹でた麺をツユにひたして食べたり(つけ麺)、カツオ出汁と醤油で味付けしたかけ汁(かけ麺)で食べる方法があります。手軽な庶民食、米食の代用食として、また、祝い事に際して振る舞われる「ハレ」の食物として、古くから日本全国で食べられてきたようです。このため地域によって、調理法や具材が違っています。
 同じ小麦粉を使って作った麺で、麺が細い「冷麦」、「素麺」、また麺が幅広で薄い「きしめん」、「ほうとう」などがありますが、基本的には別の料理と考えられています。
 うどんの誕生には諸説があって、定かではないそうです。いくつかある説を年代順に並べると、以下のようなものがあります。
 奈良時代に遣唐使によって中国から渡来した唐菓子(からくだもの)の1つである「混飩(こんとん)」だという説があります。混飩は、小麦粉を加工して作られた餡入りの団子菓子だそうです。この混飩を温かい汁に入れて食べるようになり、「温飩(おんとん)」と呼ばれるようになり、さらに、それが転じて「うんとん」、さらに「うどん」になったという説です。
 また、平安時代に弘法大使(空海)が唐から帰った際、うどんの技術を日本に持ち帰ったという説があります。空海は、讃岐国多度郡屏風浦(現、香川県善通寺市)の出身であり、当時、故郷は非常に貧しかったため、故郷の人々にうどんの作り方を教え、広まったという説があります。これにより、讃岐地方では、うどんが広く食べられるようになったと言う説です。
 仁治2年(1241年)に中国から朝鮮半島を通って帰国した円爾(えんに、聖一国師)が製粉の技術を持ち帰ったという説があります。円爾は帰国後、上陸地の博多(現在の福岡市)にて承天寺を開山しました。そこで、中国から持ち帰った饂飩、蕎麦、饅頭などの粉物の食文化を広めたという説です。
 南北朝時代末期の書物である「庭訓往来(ていきんおうらい)」や「節用集(せつようしゅう)」などに「饂飩」や「うとん」の語が現れるそうです。このことから、遅くとも鎌倉時代までには、日本にうどんが入ってきていたものと考えられます。
 現在では、室町時代には現在のうどんの形になり、江戸時代にかけて、うどん食文化が庶民の生活の中に入っていったと考えられているようです。現在のようにカツオだしと醤油で味付けした汁で食べるようになったのは、全国に醤油が出回りはじめた元禄年間(1688~1704)以後のことであり、それ以前は味噌で味付けした味噌煮込みうどんが中心だったと考えられているようです。
 うどんの上に様々な具を乗せた天ぷらうどん、玉子とじうどん、鴨南蛮うどんなどは、江戸時代中期から後期にかけて開発されたようです。現代の形の「うどん」は、江戸時代には全国的に普及し、広く食べられるようになっていたと考えられています。
 江戸時代は「うどん」、「うんどん」、「うんとん」という呼ばれ方をしていたようで、浮世絵に描かれた看板に「うんとん」と書いてあることがあるそうです。明治初期の辞書である「言海」には、「うどんは、うんどんの略」と記載されているようです。
 うどんのかけ汁は各地域によって好まれる味に違いがあるようです。特に、関西と関東では、味付けが大きく異なっています。
 関西では、うどんのかけ汁を吸い物のように出汁の味まで楽しむという文化があり、薄口醤油が使われています。具には、年間を通して瀬戸内海で取れた白身の魚や新鮮な野菜を使うことができたため、素材の風味を消さない薄い味付けの汁になったと考えられているようです。
 一方、関東では濃口醤油で味付けしており、汁が黒っぽい濃い色をしています。関東では具の材料に脂肪分の多い魚や、保存した野菜などが使われていたため、醤油の濃い味付けで食べていたと考えられているようです。
 このような大きな差だけではなく、日本中で様々な種類の「うどん」が存在しています。例えば麺の硬さや太さ、汁の味付け、具の中身など、いろいろな種類があり、一口に「うどん」とくくることができないくらいです。


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コメント[ 0 ] 2015年11月04日12:55
 ラーメンとは、麺、スープ、様々な具材を組み合わせた麺料理です。この3点は、麺料理の基本ですが、それだけではない様々なポイントがあります。別名として、中華そば、支那そば、南京そば、などがあります。現在では、日本の国民食となっている料理の1つです。
 もともとは中国の麺料理をルーツとするようです。明治時代になって開国し、横浜、神戸、長崎、函館などの港に中華街(当時は南京町と呼ばれた)ができ、中華料理店が開店しました。この中華料理店で食べられていた中国の麺料理をルーツとし、大正時代には日本各地に広まり、日本風に仕立てられ、独自に発展した麺料理がラーメンだと言えます。
 通常、「ラーメン」あるいは、「らーめん」と表記されることが多いですが、一部では「中華そば」と言う表記もあります。これらは、呼び方が違うだけで、料理は同じものと認識されています。日本国内でのラーメンの発展に伴い、時代とともに「南京そば」→「支那そば」→「中華そば」と呼び名が変わっていったようです。最終的に現在の「ラーメン」という呼び方を定着させたのは、1958年(昭和33年)に日清食品が発売した世界初のインスタント麺である「チキンラーメン」であると言われています。
 麺は小麦粉を原材料とし、かん水(鹹水)というアルカリ塩水溶液を添加するのが大きな特徴です。そのため、同じ小麦粉で作った麺でも、うどんや中国の多くの麺料理と異なる独特の色、味、食感を持っています。
 この小麦粉に水を加えて、細長い麺を作りますが、麺の太さによって細麺、中細麺、中太麺、太麺などと呼ばれています。また、うどんや蕎麦のような真っ直ぐな麺だけでなく、スープが絡みやすくなるように縮れさせた麺もあります。
 ラーメンの汁は「スープ」と呼ばれています。通常、丼に入れたタレを出汁(ダシ)で割ってスープを作り、提供されます。スープはラーメンの味を決定する非常に重要な要素であり、手間暇をかけて工夫したスープを使用する店がほとんどです。そのため、タレとダシは分けて調理を行っています。
 語源には諸説あり、はっきりと分かっていないようです。見聞きしたラーメンの語源を紹介します。まず1つ目は、中国西北部に位置する蘭州の麺料理の一種である「拉麺(ラーミェン)、繁体字で「拉麵」、簡体字で「拉面」」が由来という説です。中国語の「拉」とは、「引っ張る」という意味だそうで、拉麺は蕎麦やうどんのように刃物で切り分けて細長い形にするのではなく、手で引っ張って伸ばして細長い麺の形を形成する手打ちの技法で作られます。この拉麺は、麺生地を延ばし、何層か折りたたんで包丁で細い麺状に切る「桿麺(カン・ミエン:麺帯を麺棒で延ばし、折りたたんでは延ばし、たたんだ生地を包丁で切る麺)」と一緒に日本のラーメンの原型となったようですが、日本では各地にラーメンが広まった時期と製麺機が登場、普及した時期が近かったため、麺の手打ち職人が育つ間もなく、製麺機で製麺したものを使用するのが一般的になったようです。
 2つ目は、1922年(大正11年)に北海道札幌市に開店した「竹屋」という食堂(店主、大久保昌治、後に支那料理、竹家に改称)が由来という説です。現、北海道大学正門前に仙台市出身の元警察官の大久昌治、タツ夫婦が1922年(大正11年)に「竹家食堂」を開店しました。そこで働く中国、山東省出身の料理人の王文彩が作る本格的な中華料理が評判となり、店は繁盛したそうです。その後、常連客の北海道大学医学部教授(後の北大総長)の今裕(こんゆたか)の提案によって店名を「支那料理 竹家」に改名したそうです。麺作りは、初めは手で引っ張って伸ばす手打ち製法だったのですが、客が増えたため、製麺機を使用するようになったそうです。なお、竹家のラーメンは中華料理の「肉絲麺(ロゥスーミェン)」を原型としたもので、塩味をベースとした麺料理で、中国人留学生には人気があったものの、店のメイン料理ではなかったそうです。そこで大久タツが、王文彩の後任の料理人の李宏業、李絵堂の2人に日本人の口にも合うように改良することを相談し、その結果、それまでの油の濃かったラーメンから麺、スープ、具を改良し、試行錯誤の結果、1926年(大正15年)の夏に醤油味でチャーシュー、メンマ(シナチク)、ネギをトッピングした現在のラーメンの原形を作り出したそうです。この時、大久保たつが、厨房の中国料理人が大声で「好了(ハオラー)」と告げるアクセントを気に入り、「ラーメン」という名称にしたという説です。
 3つ目は、インターネットで調べると「中国語で「そば」を意味する「老麺(ラオミェン)」という言葉を由来とする」という説があるのですが、インターネットの辞書で調べても中国語で「そば=老麺」という結果が出ないのです。この説の裏付けとして、「一部の辞典では、ラーメンの項目で「拉麺」とともに「老麺」という漢字表記も採用している」と言うのですが、そのこと自体は由来とは言えないと思います。私としては、この説はないと思います。
 諸説あると言いながら、私としては1つ目の説が信用できると思います。実際、中国料理の「蘭州拉麺」という麺料理は有名で、今もあります。これの読みから「らーめん」という日本語になったというのが最も信用しやすい説だと思います。
 現在では、日本全国にお店があるだけでなく、御当地ラーメンという地域ごとの独自性をもったラーメンもあり、美味しいだけでなく、ウンチクを語る上で非常に楽しい文化になっています。ラーメン通という方々には、麺がどうとか、スープがどうとか、一般の人には分からない難しいことを分析し、語る人々がいるようですが、肩ひじ張らず、美味しく食べるのが国民食、ラーメンではないでしょうか。


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コメント[ 0 ] 2015年09月24日08:06
 カツカレーの発祥は、東京、銀座にある「グリル スイス」というレストランだそうです。しかも、客として訪れていたプロ野球、読売巨人軍の千葉茂氏の要請に応じて作ったのが始まりだったのだそうです。
 創業者の岡田義人氏は1923年(大正12年)に、今の東京都千代田区二番町に父、進之助の次男として生れました。岡田義人氏の父、進之助(明治28年生)氏は、「天皇の料理番」として著名な秋山徳蔵氏(宮内省大膳職主厨司長(総料理長の事、現在では宮内庁管理部大膳課主厨長を指す)とともに、日本の西洋料理の礎を創った麹町の「宝亭」(空襲により焼失)と首相官邸、国会記者クラブにて総料理長(退官後、現在のニチレイに迎えられる)をつとめ、歴代首相の東條英機から吉田茂まで料理を提供したそうです。
 進之助氏は、独学でフランス語を学び、全てのメニューをフランス語で書き、パーテイ料理を得意としていたそうです。義人氏は、その父親の影響を受け、帝国ホテルへと修行の場を求め、「ムッシュ村上」こと村上信夫氏(後に帝国ホテル専務取締役総料理長、東京オリンピック総料理長)と同期に入社しました。
 岡田義人氏は、戦後、間もない1947年(昭和22年)、銀座7丁目に「グリル 銀座スイス」を開店し、父親や帝国ホテルで学んだ技術を発揮しました。当時としては高級料理だった洋食を、より多くの方に食べてもらおうと考えて始めたのだそうです。
 1948年(昭和23年)当時、プロ野球チームの巨人軍のユニフォームは「銀座テーラー」で作っていたそうです。その店主から紹介されて、巨人軍の選手が「グリル スイス」に食事をしに寄ることが多かったそうです。千葉茂氏は、「銀座テーラー」の帰りや、多摩川の球場での練習の帰りや試合前、試合後、またはプライベートなどで来ることが多かったそうです。
 そんなある日、巨人・阪神戦の前に、「グリル スイス」に立ち寄った千葉茂氏は、お腹がすいていて沢山食べたいし、早くも食べたいと思ったのか、「カレーライスにカツレツを乗っけてくれ!」と要求したそうです。千葉茂氏の大好きなカレーライスとカツレツを両方食べたいが、面倒なので、一緒に乗せて提供して欲しい、という要求でした。
 1948年(昭和23年)当時、カレーライスの上に何かを乗せるという発想は無かったため驚いたそうですが、店主は、この要求を受け、カレーにカツレツを乗せて提供したそうです。千葉茂氏は、それをいとも簡単にペロリとたいらげ、満足されていたようです。
 その後も、千葉茂氏はカツカレーを食べていたようです。もともと好きなメニューである上、カツレツは勝負に勝つ(カツ)と言う、験担ぎもあり、試合前によく食べていたようです。カツカレーを二皿も食べる日もあったそうです。
 千葉茂氏が美味しそうに食べる姿と、見た目のボリューム感で、メニューに乗せたところ、たちまち人気メニューになり、また、あっと言う間に全国に広がったそうです。
CATEGORY[日本]
コメント[ 0 ] 2015年08月11日11:11
 日本人が鰻を食べ始めたのは、かなり古く、新石器時代の古墳で出土している多くの水産生物の骨の中に、鰻の骨も出土しているそうです。
 鰻が記録上に初めて登場するのは、「風土記」だそうです。「風土記」は、奈良時代、和銅6年(713年)に、元明天皇の詔によって、各国の物産、伝説などを収録した書物です。これにイルカ、ボラ、ナヨシ、コノシロ、ウナギ、ウグイ、ニベ、コイ、サケ、シラウオ、ワニ、フナ、シビ、フグ、ハゼ、クコ、イカ、エビ、ウニ、ウミマツ、ノリなどの水産生物が記されています。
 万葉集(759年頃)には、大伴家持が鰻を詠んだ唄が2首、乗っています。1つは、巻十六の3853で「石麻呂尓吾物申夏痩尓吉跡云物曽武奈伎取喫(石麻呂に 吾れもの申す 夏痩せに よしといふものぞ 鰻とり食(め)せ)」という唄です。
 これは、大伴家持が吉田連老(字名が石麻呂)という人に贈った唄で、吉田という人は、身体がひどく痩せていて、いくら飲んでも食べても、飢えた人の様に少しも肥えなかったそうです。そこで、「石麻呂さん、あなたはかわいそうなくらいに痩せている。うなぎは夏痩せに良いと聞いているから、うなぎを取って食べなさい。」という意味で、少し、おせっかいな唄です。
 しかし、この歌から、当時、既に「鰻を食べると太って健康になる」ということが知られていたことが分かります。
 もう1種は、この唄の次で巻十六の3854、「痩々母生有者将在乎波多也波多武奈伎乎漁取跡河尓流勿(痩す痩すも 生けらばあらむを 将(はた)やはた 鰻を漁(と)ると 河に流れな)」と唄われています。
 これも、大伴家持が吉田連老という人に贈った歌とされています。この唄は、「いくら痩せていても、じっとしていれば生きていられるものを、もっと元気になってやろうと思って、鰻を取ろうと思って川に入って、水にながされるなよ」と言う意味です。
 最初の歌で、吉田のことを心配している風に「鰻を取って食べて、元気づけた方が良い」と言っておきながら、次の歌で「でも、鰻を取りに行って川に流されるなよ!」と言っているのですから、吉田のことを馬鹿にしている感じです。大伴家持や吉田連老という人が、どのような人であったかは分かりませんが、このようなくだらない唄が後世に残ってしまうのもどうかと思います。
 しかし、奈良時代には、鰻が食べられていたこと、健康に良いと考えられていたことが分かります。ただ、どのような調理法であったかは分かりません。
 「蒲焼」と言う言葉が、初めて文献に登場したのは室町時代に記された「鈴鹿家記」だそうです。応永6年(1399年)6月10日庚申、神事の朝振舞の条に「汁:スマシ、生鱸(スズキ)、コンブ。仁物(にもの):イリコ、コンニャク。鱠(なます):ハエ、シヤウガ、アサ瓜、クラゲ。引て刺身:鯉、イリ酒、ワサビ。鱣(うなぎ):かば焼。鮒スシ。カマボコ。香物。肴種種。臺物五ツ。」とあるそうです。
 しかし、当時の鰻の蒲焼は、現在の調理法とは異なり、ウナギを開かずに、そのまま串に刺して焼いていたようです。このウナギの丸焼きの様子が、蒲の穂に似ていることから「蒲焼(がまやき)」と名付けられたと言われています。この「がまやき」が、いつのまにか「かばやき」に変化して、現在に至ると言われています。
 その後、室町時代までは鰻をぶつ切りにしたり、小さめのウナギを丸のまま串を打って焼いて、塩で食べたり、酢みそ、辛子酢などで味付けして食べられていたようです。
 室町時代末期には、ぶつ切りにしたウナギに醤油や酒、山椒味噌などで味付けした「宇治丸」と呼ばれる料理が登場しました。この料理は、近江の宇治川のウナギが大変美味だった事が由来と言われています。
 ウナギの蒲焼が盛んになったのは江戸時代中期からで、江戸前と言えば、ウナギのことだったそうです。そもそも「江戸前」とは「城の前」、すなわち江戸城の東側から大川の西側の範囲をいい、海も含まれましたが、一般的には河川のことだったそうです。すなわち隅田川とか神田川とか、そうしたところが江戸前で、そこで捕れたものが唯一、江戸前の食べ物ということになります。そこで鰻屋の看板に書かれていたのが「江戸前」という言葉だったそうです。(「江戸前」と言う言葉が「江戸前寿司」という意味に変わっていったのは、明治時代の中頃だそうです。)元禄時代(1688年~1704年)には、江戸市中に鰻の辻売りや、鰻屋が現れていたそうです。
 1730年(享保15年)の「料理綱目調味抄」には、「鰻、樺焼の仕様いろいろあり。大は悪し、中なる川鰻よし、油多きはあしく、全体なる時、竹刀にて皮を下の方へひたとこわけ、油をとるべし、又、一度焼きて熱き酒を数遍かくれば、油とれ皮もやはらぎてよし」とあるそうです。
 また、天保年間の「世のすがた」には「うなぎ蒲焼は天明のはじめ(1782年)、上野山下佛店(ほとけだな)にて大和屋といへるもの初めて売り出す。其の頃は飯を此方より持参せしと聞く。近来はいづ方も飯をそへて売り、又茶碗もりなどといふもあり」と記載されているそうです。また、佛店には大和屋以外に、濱田屋という蒲焼屋もあったそうです。
 1700年代に江戸で鰻の蒲焼が広まったのには、千葉県銚子にある、現在のヒゲタ醤油の影響が大きいようです。1697年(元禄10年)、第五代当主、田中玄蕃が原料に小麦を配合するなどして製法を改良し、現在の濃口醤油の醸造法を確立させました。
 醤油は主に関西から入って来ていたのですが、薄口で江戸の人の嗜好に合っていなかったようです。田中玄蕃が生み出した濃口醤油がが江戸の人の嗜好に合い、ウナギの蒲焼も大流行していったというのです。
 この大流行に伴い、ウナギの調理法も工夫がされていったようです。ウナギのさばき方として、関東と関西では、下記のような違いが言われています。関東では、①ウナギの背中側から開く「背開き」、②串打ち(短い竹串を使用)、③白焼き(そのまま焼く)、④白蒸し(セイロで蒸す)、⑤タレをつけて焼く、という工程ですが、一方の関西では、①ウナギの腹から開く「腹開き」、②串打ち(長い鉄串を編むように刺す)、③白焼き(そのまま焼く)、④タレをつけて焼く、と言う工程が一般的です。
 大きな違いは、(1)開き方、(2)串の形状、(3)蒸しの有無、という3点です。しかし、江戸時代の初期は、ウナギの焼き方は、全て「関西焼き」だったそうです。つまり、頭をつけたまま腹から割き、炭火で白焼きをし、タレをからめて仕上げる方法です。
 これが、現在、関東で主流な「背開き」に変わったのは、関西は商人の町に対し、関東は武士の町で武家が多かったため、「腹を割く」ことが「切腹」につながるため、「背開き」が広まったという説が一般的です。
 ところが、「背開き」に変わっていったのは、もっと単純な理由なようです。江戸では、ウナギの蒲焼が屋台で出されていたことと関係がありそうです。まず、(3)蒸し工程ですが、じか焼きの鰻は冷めると身が固くなるため、いったん白焼きした鰻を蒸して、余分な脂を落とし、柔らかく、ふっくらとした鰻が好まれるようになっていったといわれています。
 (2)の串ですが、関東では、蒸す工程が入ったことによって、蒸し器に入れられる程度の大きさで十分であることから、短い竹串が使われるようになっていったそうです。
 (1)の開き方ですが、背開きの方が簡単だということが、関東で広まった理由のようです。江戸前の鰻が大流行するにつれ、手間がかからない背開きが広まったというものです。手間がかかると、沢山のお客さんをさばききれないから、合理的な方法が採用されたということです。ちなみに、大阪でも関西風の焼き方をしているお店が、減ってきているという話もあるそうです。

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