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おやつとして食べられることが多いスナック菓子のポテトチップスですが、ポテトチップス(Potato chips)は米語で、英語ではクリスプ(Crisps)、日本ではポテトチップスのほかにポテチ、チップスなどと言われている食べ物です。
ポテトチップスは、1853年7月にアメリカ、ニューヨーク州のサラトガ・スプリングス(Saratoga)にあるムーン・レイク・ハウスホテル(Moon Lake Lodge)というホテルのレストランで生まれたという説が一般的です。
このホテルのレストランで食事をしていた、ある客が「フレンチ・フライが厚すぎる!」と文句を言ったそうです。そこで、ジョ-ジ・クラム(George Crum)というフランス人コック長がいつもよりも薄いフレンチ・フライを作ったのですが、それでも「厚い!」と文句を言われたそうです。そこでジョ-ジ・クラムは頭にきて、文句を言った客が驚くくらいの薄いフレンチ・フライを作って出したそうです。
ところが、そのフレンチ・フライがあまりに美味しく、評判になり、サラトガ・チップス(Saratoga Chips)という名でレストランのメニューに登場するようになったそうです。
その後、この料理の噂が広まり、ニューイングランド地方に広く普及したそうです。アメリカで生まれたポテトチップスは、フランスで好まれるようになり、1870年頃にはヨーロッパでも広まっていたようです。後日、発祥を記念し、1976年7月、このホテルの跡に記念碑が建てられたそうです。
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チーズとは、牛、水牛、羊、山羊、ヤクなどの乳を原料とし、凝固や発酵などの加工をしてつくられる食品(乳製品)です。日本語での漢字表記は「乾酪」です。
家畜の乳は、古くから栄養価の高い食品として世界中で利用されてきましたが、冷蔵庫がない時代、長期の保存ができませんでした。また液状のため、運搬するのも不便です。これらの欠点を補うため、水分を抜いて保存性と運搬性を高めたのがチーズの始まりのようです。
チーズがどのようにして発見されたのかは正確には分かっていないようですが、紀元前4000年頃には作られていたと考えられているようです。有名なチーズ発見の話として、次のようなアラビアの伝説があります。
アラビアの商人が果てしなく広がる砂漠を横断する長旅に備え、羊の胃袋で作った水筒に山羊の乳を入れ、ラクダの背にくくりつけて旅に出たそうです。暑い砂漠を歩き、疲れたので喉の渇きを癒そうと水筒を開けたところ、ミルクが出てこなかったそうです。何とそこに乳はなく、白い塊(カード)と透明な液体(乳清)が出てきたそうです。気持ち悪いと思ったものの、喉が渇いていたため、おそるおそる食べてみると、これがとてもおいしかったそうです。そして、この話を知人に伝えると、次第に広まっていったそうです。
これは、太陽熱で温められた山羊の乳が、偶然、羊の胃袋の中にあった酵素の働きによって固まったことを示しています。このチーズの原型がエジプト、インドなどに広まっていき、さらにトルコを経て、ギリシャ経由でヨーロッパやアジアにも伝播していったという話です。
ところが2012年12月12日、およそ7000年前に先史時代の人類が、ポーランドで土器を使ってチーズを作っていたことを示す証拠が見つかったと、英ブリストル大学(University of Bristol)などの国際研究チームが科学誌「ネイチャー(Nature)」に発表しました。
英ブリストル大のリチャード・エバーシェッド(Richard Evershed)氏(有機地球化学)の研究チームが、ポーランドから出土した約7000年前の素焼きの土器片に付着していた脂肪酸を化学分析した結果、現代のチーズ製造用こし器に匹敵するほど大量の乳脂肪分が検出されたそうです。論文は、この土器が牛乳から水分を抜き凝固した牛乳(カード)と乳清に分離する作業に用いられたことを示す強力な証拠だと結論付けています。
このことは、チーズの発祥が中東ではなく、ポーランドあたりの中央ヨーロッパで始まった可能性を示唆しています。このチーズの原料はヤギの乳であり、現在のポーランドでも多くの種類の山羊乳チーズ(いわゆるシェーブルチーズ)が存在しています。
現在、世界中で様々な種類のチーズが製造、販売されています。FAO(国連食糧農業機関)およびWHO(世界保健機関)では、チーズを以下のように定義しています。
『チーズとは、フレッシュ又は熟成した、固形又は半固形の製品であり、下記のいずれかに基づき製造されたもの。
(a)レンネット又はその他適当な凝固剤の作用により、乳、脱脂乳、部分脱脂乳、クリーム、ホエークリーム、バターミルク又はこれらのどんな混合物であっても、 それらを凝固させ、この凝固物より分離するホエーを部分的に流出せしめることで得られるもの。
(b)乳及び、または乳から得られる原料を用い、凝固を引き起こす加工技術により(a)に限定されている製品と同じ化学的、物理的、官能的な特徴をもつ最終的な製品。』
日本では「乳及び乳製品の成分規格等に関する省令」で、チーズを「乳を乳酸菌で発酵させ、または、乳に酵素を加えて、できた凝乳から乳しょうを除去したもの」と定義されています。
乳に凝乳酵素(レンネット、Rennet)または、酸(食酢、レモン汁など)を加えて静置すると、ふわふわした乳タンパク質の白い塊と上澄みの水分(乳清、ホエー(whey))に分離します。この白い塊はカード(curd、凝乳)と呼ばれています。これを絞るなどして、さらに水分を除いたものがフレッシュチーズ(fresh cheese)と呼ばれるチーズの原型です。ここでレンネットとは、母乳の消化のために数種の哺乳動物の胃で作られる酵素の混合物のことで、チーズの製造に用いられており、凝乳酵素とも呼ばれています。
多くの場合は、このカードに熟成、加工の過程が加わって、様々な味わいのチーズを作り出しています。加工の過程では乳酸菌やカビなどを用いて発酵させたり、加温、加圧などの工程を加えて保存性を高めるなどの工夫が凝らされています。
チーズの種類は、世界中で1000種類以上あると言われていますが、日本ではナチュラルチーズ(natural cheese)とプロセスチーズ(processed cheese)が一般的です。
ナチュラルチーズは牛、山羊や羊等の乳に、乳酸菌や凝乳酵素(レンネット、Rennet)を加えて凝固させ、そこからホエイ(whey、乳清)の一部を取り除き、乳酸菌やカビ等の微生物で発酵、熟成させたものです。(一部、熟成させないものもあります。)
ナチュラルチーズは加熱や殺菌などの加工をしないため、チーズ本来の味わいと風味があり、個性が楽しめ、ヨーロッパでは一般的です。一方、長期保存はできません。また、乳酸菌や酵素が生きたまま含まれているため、腸内の善玉菌を増加させ、便秘や吹き出物の予防にも役立ってくれると言われています。
プロセスチーズは、1種類または2種類以上のナチュラルチーズを砕き、乳化剤を加えて加熱して溶かし、それを型に入れて、再び成型したものです。加熱によって細菌や酵素の働きが止まっており、熟成がそれ以上進まないため、風味が変化しにくく、長期保存が可能になっています。20世紀の始め頃、スイスで開発され、昭和の初め頃、日本に入ってきました。現在の日本では箱形、扇型、棒状、粉末状、スライス状など、様々な製品が作られています。
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あんパンは木村屋(現、木村屋總本店)創業者であり、茨城県出身の元士族、木村安兵衛とその次男の木村英三郎が考案し、1874年(明治7年)に銀座の店で売り出したのが最初だそうです。
木村安兵衛(当時、50歳)は、1869年(明治2年)に日本初のパン屋、「文英堂」を東京、芝日陰町(現在の新橋駅あたり)に開きました。翌1870年(明治3年)には、京橋区尾張町(現在の中央区銀座付近)に移転、屋号を「木村屋」に改称しました。
当時の日本にはパンに必要なイースト菌がありませんでした。このため、西洋のパンのような美味しさがなかったようです。このため、安兵衛、英三郎親子は、美味しいパンを作る方法に悩んでいたそうです。
その結果、安兵衛がヒントにしたのが酒饅頭だったそうです。酒饅頭に使われていた酒種をイースト菌の代わりにし、パンの中にあんこを入れて売り出したところ、好評を博したそうです。
そして、翌1875年(明治8年)4月4日、東京向島の水戸藩下屋敷を行幸された明治天皇に山岡鉄舟が酒種桜あんぱんを献上したそうです。この時、あんぱんのへそには、奈良の吉野山から取り寄せた八重桜の花びらの塩漬けを埋め込み、季節感をたっぷり盛って焼き上げられたあんぱんでした。
この桜あんぱんは、明治天皇のお気に召し、また、ことのほか皇后陛下(昭憲皇太后)のお口にもあったそうです。そして「引き続き納めるように」と両陛下のお言葉を頂き、皇室御用達となりました。
木村安兵衛と山岡鉄舟は、明治維新の前から、剣術を通じて知り合っていたようです。1874年(明治7年)に新しく出来た銀座煉瓦街であんぱん作りに熱中していた木村親子は、完成したアンパンを山岡鉄舟にも食べさせたようです。西洋から入ってきたパンとは異なり、日本にある酒種を使ってパンを作り、その生地であんを包んで焼き上げるという日本の技術が鉄舟の心をとらえたのでしょう。これが、翌年の天皇陛下への献上に繋がったようです。
現在では色々なアンパンが作られています。中の餡がつぶあん、こしあんの小豆餡という一般的なアンパンのほか、インゲンマメを使った白あんパンや、イモあんパン、栗あんパンなどの豆以外の餡を使ったもの、桜あんやうぐいすあんを使った季節のあんパンもあります。
また、典型的な形状は平たい円盤ですが、真ん丸の形状、四角い形状など、様々な形があります。また、ケシの実(ケシの種)、塩漬けの桜の花(ヤエザクラ)、ゴマの実などを飾りに乗せたアンパンもあります。さらに揚げた餡パンや、トーストに餡を挟んだ揚げパンなどもあります。
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どんぶりの元祖と言われる鰻丼が登場したのは、江戸時代の文化年間(1804年~1818年)頃とする説が一般的だそうです。当時、鰻屋も屋台が中心でしたが、天ぷら屋も同じく、屋台が中心でした。このため、同じように天ぷらを丼飯に乗せて売り出す店ができたとしても不思議ではありません。
ただ、正式に天丼が売られていたことが分かっているのは、明治時代だそうです。しかし、天丼の発祥には、いくつかの説があるようですが、東京生まれと言うことは間違いないようです。
1832年(天保3年)創業の「橋善」(すでに廃業しているようです)、創業1837年(天保8年)の東京、浅草雷門「三定(さんさだ)」など、江戸末期に創業している古いお店が発祥として言われているようです。
しかしながら、天丼が生まれたのは明治時代になってからという説が有力で、1870年(明治3年)に浅草公会堂前に店を構えた中清(なかせい)を天丼発祥とする説もあるようです。
また、前垣和義氏の「どっちがうまい!?東京と大阪・「味」のなるほど比較事典(PHP文庫、2002年)」には、「天丼は、明治十年(1877年)頃、東京神田鍛冶屋町の「仲野」の主人が考案」と記載されています。
また、一説には、天丼は、これらのテンプラ屋さんではなく、蕎麦屋が考案したという説もあるようです。1887年(明治20年)に浅草、伝法院通りに、そば屋を開業した大黒家天麩羅のHPでの説明では、伝法院通りは人通りが多く、賑やかで繁盛していたものの、忙しい割には儲からなかったそうです。しかし、天ぷらそばが売れた日は売り上げが上がることに気づき、そば屋から天ぷら屋に変えたそうです。蕎麦屋が天麩羅も扱い、また御飯も出すようになったとしても不思議はありません。
1887年(明治20年)には天丼は3銭だったという記録があるそうです。このことから、明治20年よりも前に、天丼が一般的な料理の1つとして広く認められていたことが分かります。天丼を生み出したのがどこの誰かは分かりませんが、誰が思いついてもおかしくない料理です。 ブログランキングに参加しています!応援お願いします! → ![]() 人気のアロマディフューザーランキング 日本盛オリジナル【つや肌酵母】から生まれた自然派スキンケア |
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寒天とは、テングサ、オゴノリなどの海藻の煮汁を凍結、乾燥させた食品です。煮溶かしてゼリー状とし、蜜豆、水羊羹などの菓子の材料として利用されています。トコロテンは中国から製法を学び、作り始めたものですが、寒天は日本のオリジナルです。
江戸時代初期の正保~万治の頃(1644年~1661年)、現在の京都市伏見で旅籠「美濃屋」を営んでいた美濃屋太郎左衛門が発見したと伝えられています。たまたま、真冬にトコロテンを戸外に置き忘れたところ、夜間の厳しい寒さで凍っていたのを見て思いついたそうです。夜には凍り、日中には溶けて水分が抜け、また凍っては溶け、これをくり返すうちに、トコロテンより白く、海藻の臭いも消えて美味しくなったトコロテンができたそうです。そこで、「瓊脂(トコロテン)の干物」と名付けて売り出したところ、評判になったそうです。
これを黄檗宗の開祖、隠元禅師に献上したところ、精進料理の食材として活用できると喜ばれ、「寒晒心太(かんざらしところてん)」の意味を込めて、「寒天」と命名したそうです。
その後、大阪の宮田半兵衛が製法を改良し、寒天を広めたそうです。さらに天保年間(1830年~1843年)に信州の行商人、小林粂左衛門が、寒さが厳しく空気の乾いている諏訪地方の農家の副業として寒天作りを広めたところ、角寒天というユニークな形態で、この地に定着したそうです。
1881年(明治14年)には、ロベルト・コッホが寒天培地による細菌培養法を開発したため、寒天の国際的需要が増えました。このため、第二次大戦前は寒天が日本の重要な輸出品になっていましたが、第二次世界大戦中は戦略的意味合いから輸出を禁止しました。
寒天の供給を絶たれた諸外国は自力による寒天製造を試み、自然に頼らない工業的な寒天製造法を模索しました。その結果、原料となる紅藻類を発見し、冷凍庫を利用して粉末状の新しい寒天を生産することに成功しました。こうして作られたのが粉末寒天です。
第二次大戦後には日本でも工業的な製造法の研究が始まりました。1960年(昭和35年)頃には、オゴノリという紅藻類を使用し、凍結せずに圧力脱水する新しい製法が発見されました。1970年(昭和45年)頃には製造会社が35社にまで達しました。しかし、コストや需要などの問題で、2004年(平成16年)頃には5社ほどにまで激減してしまいました。現在、日本以外では、モロッコ、ポルトガル、スペイン、チリやアルゼンチンで寒天が製造されています。
寒天は、そのほとんどが食物繊維で、100g中80.9gを食物繊維が占めています。これは、あらゆる食品の中で最も多く食物繊維を含んでいます。寒天に緩下作用、整腸作用があることは、ある程度知られていましたが、食物繊維が注目され、その研究が進むにつれて寒天の効用が他にも明らかになってきました。
その1つが血圧を下げることです。食物繊維が、血圧の上昇を抑えたというデータは、動物実験でも人間に対するものでも幾つか出ています。この結果、食物繊維は腸内で脂肪吸収を妨害し、いっしょに排泄するからだろうと考えられています。
また、コレステロールを低下させることも明らかになっています。動脈硬化を進行させる最大の因子は、血液中のコレステロール量の増加です。その予防のためには、善玉コレステロールが増え、悪玉が減ることが理想的とされています。
「寒天」などの水溶性多糖類は、悪玉コレステロールを減らし、善玉の降下を抑制する効果のあることが分かっています。水溶性多糖類は、腸内でねばねばした状態になるので、胆汁酸が腸壁まで到達することを妨害します。胆汁酸は脂質の消化を助ける主成分なのですが、使われても腸壁から吸収され、肝臓でリサイクルされます。しかし、水溶性多糖類が吸収を妨害していますので、胆汁酸は肝臓で作らなければなりません。その胆汁酸の原料はコレステロールなのです。つまり、新しい胆汁酸を合成するためには体内のコレステロールを利用するため、体内のコレステロールが、それだけ少なくなるというわけです。
また、大腸ガンを予防する効果もあると言われています。日本人の死亡原因のトップはガンで、中でも大腸ガンが増えてきています。この原因の1つに、欧米型の食生活があると考えられます。欧米型の食事を続けると便の量が少なくなり、しかも大腸内に長く滞留するようになるからです。もし、大腸内で発ガン物質やそれを助ける物質が出来た場合、それを吸収する時間も長くなります。また、動物性蛋白質や脂肪を多くとると発ガン物質やそれを助ける物質が出来やすくなるという結果も出ています。
腸内に食物繊維がたくさんあると、発ガン物質が吸着排泄されるので、大腸はその作用を受けにくくなります。しかも食物繊維は胃の中で水分を吸い、カサを増やすので発ガン物質が希釈され、大腸壁にふれる率も低くなります。
また、腸内菌がガンの予防や発生に関わりがあると言われますが、食物繊維はこの腸内菌、特に善玉ビフィズス菌を増殖しやすくする働きもあります。ビフィズス菌は、腸内で悪玉菌の増殖を抑えたり、有害物が吸収されるのを防いでくれます。
さらに血糖値を下げる効果もあると言われています。食物繊維を多くとるようにすると、胃がその内容物を腸へ送りだすスピードが遅くなります。そのため、腸壁からの糖質吸収にも時間がかかり血糖値の上昇も緩やかになるわけです。
糖尿病はインシュリンの分泌障害によって食物としてとり入れた糖質の体内利用がうまくいかず血糖値が異常に高くなる病気です。食物繊維が血糖値の上昇を抑えていますので、インシュリンの分泌が少ない人でも充分糖質を分解させることができるわけです。
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