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コメント[ 0 ] 2014年06月07日13:58
 明太子(めんたいこ)とは、産卵前のスケトウダラの腹からとれた卵巣(タラコ)を塩漬けにして唐辛子を基本にした調味液で味付けして熟成させた食べ物です。「ふくや」の川原俊夫氏が1949年(昭和24年)1月10日に「明太子」と名付けて、製造販売したのが、日本で最初と言われています。
 これ以前でもタラコは、日本国内でも海外でも食べられていたようです。1903年頃から北海道においてスケトウダラ漁が本格化して、スケトウダラの卵の塩漬け(たらこ)が盛んに食べられていました。1910年から1921年にかけて、スケトウダラの卵巣に食塩と食紅を添加した「紅葉子」が開発され、樽詰めにして北海道各地、山形、新潟、東京、名古屋、大阪、下関等に出荷されていました。
 福岡でもタラコの塩漬けを「たいのまこ」と呼んで食べていたそうです。川原氏が「明太子」を売り出す際、当初、「たいのまこ」として販売しようと考えたこともあったようですが、思案の結果、「明太子」として売り出したそうです。
 この明太子の語源は、韓国にあるようです。韓国では、スケトウダラを「明太(명태:みょんて)」と呼びます。これは、朝鮮の明川(みょんちょん)という所に住む太(テ)さんが「スケトウダラ」を初めて釣ったため、朝鮮半島ではスケトウダラを「明太(ミョンテ)」と呼ぶようになったのだそうです。
 「朝鮮の食べもの(鄭大声著、築地書館、1984)」という本では、「17世紀半ばの李朝時代に観察使として赴任した閔(ミン)という人がこの魚を食べ、その名を地元民に聞いたが、誰も知らなかったため、明川(ミョンチョン)郡の「明」と、魚をとった漁師の名前「太」をとって「明太」と名付けた。」と記載されています。上記の話が、広く知られていたことが分かります。
 戦前、朝鮮半島や中国に住む日本人の間ではスケトウダラも、味つけされたタラコも「メンタイ」と呼んでいたそうです。当時の朝鮮の漁師たちは、スケトウダラが捕れると魚自体よりも美味しいという事で、その卵を取り出して塩辛などを作って食べていたそうです。
 幼年時代を韓国の釜山で過ごした川原氏は、韓国でスケトウダラや、唐辛子やニンニクで漬け込んだキムチのように味つけされたタラコを食べていたようです。川原氏は、明太子を売り出す際、「明太(スケトウダラ)」の子(卵)ということから「明太子」と名付けたそうです。
 空襲で焼け野原となっていた福岡県の中州に引揚者25所帯で市場を作り、「ふくや」という食料品店を始めたのが1948年(昭和23年)10月5日でした。この3ヶ月後に明太子の製造、販売を始めましたが、当時の明太子はまずい上に値段が高く、あまり売れなかったようです。当時、サンマ一尾が10円であったのに、明太子は一腹120円もしたそうです。
 「ふくや」は明太子以外の食品で儲けていたため、この店独自の商品を作りたいという川原氏の思いを遂げることができたそうです。試行錯誤をしながら改良を加え、現在の調味料に漬け込む辛子明太子の製法にたどりつき、美味しい「明太子」が完成するには、10年以上の歳月がかかりました。1960年に改良された辛子明太子が「味の明太子」の名前で発売され、そのレシピを無料で配布することによって博多中に「明太子」が広まっていったようです。
 現在では、「辛子明太子」、「明太子」なる商品名で売られることが多いようですが、どちらも同じように唐辛子などで味付けされています。ちなみに、「全国辛子めんたいこ食品公正取引協議会」の規約では、「辛子めんたいこ」を「すけとうだらの卵巣に唐辛子を主原料とする調味液等で味付けしたもの」と定義しています。
 「明太子」の原料となるのは、タラ科の魚「スケトウダラ」の卵巣です。スケトウダラは全長60~70cmほどの細長い形をした魚で、北海道近海などの日本海や太平洋の北部、ベーリング海からアラスカ湾までの北海に生息しています。例年、2月~4月頃の日本海近海、または12月~2月頃の朝鮮近海で産卵します。卵巣は2本が一対の状態で繋がっており、対単位で一腹(ひとはら)、ニ腹(ふたはら)と数えます。
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CATEGORY[日本]
コメント[ 0 ] 2014年03月02日10:09
 天津飯(てんしんはん)は、天津丼とか蟹玉丼などとも呼ばれている料理ですが、細かい内容は地域や店によって違うようです。中国の料理のように思われているかもしれませんが、日本で生まれた料理で、中国にはありません。
 一般的には、刻みネギ、干し椎茸、カニの身や海老、塩などを加えた溶き卵を中華鍋やフライパンで混ぜながら焼き、深めの皿や丼などの食器に盛った御飯の上にのせて、さらに、その上に片栗粉でとろみをつけたあんをかけた料理です。
 玉子に入れる具だけでなく、アンも地域によって大きな差があるようです。静岡県浜松市より東の関東圏では、酢に加えてトマトケチャップを使うことが多いようです。このため、赤い色の少し酸味があるアンになります。
 一方、静岡県浜松市より西の関西圏では、醤油を使ってアンを作ることが多く、薄茶色の場合が多いようです。この他にも、玉子焼きの上に透明な塩味のアンをかけたものや、アンが無い場合などもあるようです。また、彩りにグリーンピースを乗せるとか、刻みネギを乗せるとか、いろいろなパターンがあるようです。
 かに玉丼と呼ばれている場合は、玉子焼きに蟹肉(最近では、カニカマで代用している店もあるようです。)が入っていることが前提です。このカニタマには、中国の広東料理に「芙蓉蟹肉」という料理があり、この料理が元祖に近いのかもしれませんが、中国では、この料理を御飯の上に乗せて食べることはないですし、「天津飯」と言う名称の料理も存在しません。
 どうやら名前の由来だけでなく、その発祥も謎のようです。現在、知られている天津飯の発祥には、来々軒説と大正軒説があるようです。来々軒説は、1910年に尾崎貫一が浅草で創業した大衆的な中国料理店「来々軒」を発祥とするものです。
 来々軒は、1944年(昭和19年) に尾崎家の息子3人が出征したため、浅草の店を閉店しましたが、戦後の1945年(昭和20年)に三代目の主人である尾崎一郎が、東京駅の八重洲口に新たに来々軒を出店しました。この時、銀座の萬寿苑からコックを呼んだそうです。ある時、客から「何か早く食べるものを作ってくれ」と言われた時、このコックが「蟹玉(芙蓉蟹肉)」を丼御飯に乗せて、酢豚の餡を応用した甘酸っぱい醤油味の餡をかけた料理を作り、「天津芙蓉蟹肉飯」と名付けて提供したそうです。これが天津飯の始まりだとする説です。この説では、この料理名が長すぎて、やがて「天津飯」になり、広まっていった、ということになりそうです。この来々軒は、東京ラーメンの草分けだったそうですが、尾崎一郎には後継者がなく、1994年(平成6年)に廃業となったそうです。
 一方の大正軒説では、大正時代に大阪城近くの馬場町に山東省出身の人が中国料理店「大正軒」を開業したものの、戦後で食料不足だったため売り物がなく、天津の食習慣であった「蓋飯(皿に盛った御飯の上におかずを乗せた料理)」を元に、天津で多く捕れていたワタリガニを使った蟹玉を御飯の上に乗せて、さらに上から餡をかけた「芙蓉蟹蓋飯」という料理を作ったそうです。しかし、蟹肉は高かったため採算が合わず、大阪湾で採れたサルエビ(トビアラ)に代えて、名称も「天津飯」と変更したそうです。さらに、当時は卵も入手難だったため、天津から輸出されてきた小さなサイズの鶏卵を使っていたとのことです。
 この大正軒説は、大阪の料理人の間で噂されているようですが、真実味が薄いように思います。この元となる「大正軒」という店自体の存在が怪しいですし、「戦後で食料不足だった」という設定も分かり難いです。昭和であればともかく、大正時代は、戦争もあったにせよ、むしろ継続して発展している時代で非常に活気があったように思えるのです。また「サル海老」に変えただけで、いきなり「芙蓉蟹蓋飯」が「天津丼」に変わる理由も不明ですし、意味が分かりません。いろいろな話が混ざっているように思います。
 さらに、発祥の店は不明であるものの、名前の由来として「天津の米」を挙げるものがありました。その説では、昭和の物資不足の時代に、中国の天津産の「小站米(シャオチャンミー)」という米が品質が良いことで有名だったそうです。この米をわざわざ使って、蟹肉入りの卵焼きを乗せた丼料理という意味で、「天津芙蓉蟹肉飯」という料理名があった、という説です。この長い名称が省略されて「天津飯」と呼ばれるようになり、広まったというものです。
 この説は、来々軒の説の名前の裏付けとしたら面白いですが、単独では説得力にかけると思います。物資不足の時代に、わざわざ美味しいことで有名な「天津の米」が手に入るのであれば、それだけで客が呼べると思います。日本人の味覚からすれば、物資不足の時代に、わざわざ「美味しい米」にあんかけの玉子焼きなどの料理を乗せることはないと思います。美味しくない米であれば、あんかけなど、濃い味付けの料理を乗せて食べるのは、ありだと思いますが。
 ネットで分かる情報からは、天津飯の発祥は、来々軒説が正しいように思います。来々軒という中華料理店(主にラーメン屋さん)は、全国各地に広がっていると思います。もちろんネーミングが良いといことで真似をしただけかもしれませんが、ラーメンや天津飯なども真似をしているかもしれません。真似をする時に、わざわざ長ったらしい名前をつけるとは思えませんので、真似をする段階で、多くの店が「天津飯」あるいは、「天津丼」というネーミングをつけていって、広まったのではないでしょうか。謎が多く、かつ中国にはない中華っぽい料理、いろいろな地域で味わってみたいですね。


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コメント[ 0 ] 2014年02月09日19:17
 小倉餡は、小豆の漉し餡に、蜜漬の小豆をまぜた餡です。煮崩れしにくい大納言種の小豆の粒餡と粒の小さい普通小豆のこし餡を混ぜたものを指していましたが、近年では、粒餡の事を小倉餡と言う場合もあるようです。
 京都、嵯峨野にある二尊院の境内には「小倉餡発祥之地記念碑」があります。それによると、806年(大同1年)、唐から空海が持ち帰った小豆を、この地で亀の子煎餅を焼いていた和三郎という人に栽培させたそうです。
 820年(弘仁11年)、朝廷から与えられた砂糖と一緒に炊いて、それを御所に献上したところ、たいそう喜ばれ、朝廷から「亀屋和泉」という允許を賜ったそうです。そこで、この餡のことは、地名から「小倉餡」と呼ばれるようになったとのことです。
 その後、小豆の栽培地は丹波地方などに移り、品種改良も進み、古来の小豆「小倉大納言」は亀岡でわずかに残るだけとなってしまったそうです。近年になって、嵯峨小倉山の畑で栽培が復活しているようです。
 これとは別に、餡の中に見える小豆の粒が鹿の斑紋に似ていることから、鹿と言えばモミジ、モミジと言えば紅葉で有名な小倉山(京都)との連想から、「小倉餡」とされたという説もあるようですが、こちらは、少し、こじつけが過ぎるように思います。

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コメント[ 0 ] 2013年12月22日09:08
 日本では有名な料理の一つで、本格的な中華料理だと思っているかもしれませんが、実際には、現在、日本で作られているエビのチリソース炒めは、日本で改良された料理で、元々の中国料理とは異なるようです。現在、日本で知られているポピュラーなレシピは、中華料理人の陳建民氏が改良したものが元になっているそうです。
 中国料理の料理人である陳建民氏が、日本で中国料理店を開く際、四川料理の「乾焼蝦仁」を日本人の口に合うように改良したのだそうです。乾焼蝦仁とは、海老を薬味と豆板醤で炒めた料理で、四川料理らしく、辛味が強いようです。陳建民氏は、このままでは、一般的な日本人の口には合わないと考え、改良を加えたようです。
 当時は、まだ、日本人が豆板醤の辛味に慣れていなかったことから、ケチャップ、スープや卵黄を用いて辛味を抑えたそうです。また、調理法そのものを簡易化し、簡単に作りやすい料理にしたようです。陳建民氏の息子で、同じ中華料理の料理人である陳建一氏によると、現在のレシピが完成するまでは、生のトマトを刻んで入れたりするなど、様々な試行錯誤があったそうです。現在のレシピは、陳建民が晩年に完成させたものだそうです。
 ケチャップやスープの素を利用することによって、家庭でも簡単に作れるようになり、かつ、辛さが抑えられた事もあり、日本の大衆に受け入れられました。さらに、中華料理ブームに乗った食品会社の宣伝も手伝って一気に普及したようです。今日では、代表的な中華料理の一つとして、日本人に広く親しまれています。
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コメント[ 0 ] 2013年11月10日14:06
 北海道の網走市には「オロチョンの火祭り」というお祭りがあるそうです。この「火祭り」ということから、「口から火が出るほど辛い」ということが連想され、唐辛子等で辛く味付けしたラーメンを「オロチョンラーメン」と名付けて、売り出した店があるようですが、発祥がどこなのか、全く分かりません。
 現在では、日本全国、いろいろな場所のラーメン屋さんに辛味の「オロチョンラーメン」や「味噌オロチョンラーメン」というメニューがあります。また、場所によっては「オロチョンラーメン」という店名の店もあるようです。また、お店によっては、オロチョンラーメンの辛さを選べるようになっているところもあるようです。
 もともと「オロチョン族(Orochon,Oroqin)」という民族がいたようです。主に北東アジア、中国領内の内モンゴル自治区や、その近隣のロシア領内に居住していたようです。したがって、北海道に「オロチョン族」が住んでいた訳ではなく、網走の「オロチョンの火祭り」とオロチョン族とは何の関係もないようです。また、オロチョン族と呼ばれる民族の文化に、火祭りと呼ばれるような儀式は無いそうです。
 昔、日本において「オロチョン」という言葉が、アイヌを含む北方民族全体を指す呼称として用いられた時期があったそうで、このことから網走市で行わている火祭りは、「オロチョンの火祭り」と命名されたようです。
 網走市の「オロチョンの火祭り」は、北海道の先住民の祭りだそうです。アイヌの祭りだと勘違いされることが多いようですが、アイヌではなく、すでに滅亡してしまった民族の祭りだそうです。北方系少数民族の先人を偲び、霊を慰めるとともに、郷土の豊かな実りを祈願したことが発祥の由来だそうです。祭壇の前で火を激しく燃やし、その周りでシャーマンや踊り子が踊りまくるのだそうです。シャーマンは太鼓をたたきながら踊り続けるのだそうです。現在では、毎年7月最終土曜日の夜に、モヨロ貝塚と中央公園で開催されており、網走の夏の風物詩となっているそうです。

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