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日本人が鰻を食べ始めたのは、かなり古く、新石器時代の古墳で出土している多くの水産生物の骨の中に、鰻の骨も出土しているそうです。
鰻が記録上に初めて登場するのは、「風土記」だそうです。「風土記」は、奈良時代、和銅6年(713年)に、元明天皇の詔によって、各国の物産、伝説などを収録した書物です。これにイルカ、ボラ、ナヨシ、コノシロ、ウナギ、ウグイ、ニベ、コイ、サケ、シラウオ、ワニ、フナ、シビ、フグ、ハゼ、クコ、イカ、エビ、ウニ、ウミマツ、ノリなどの水産生物が記されています。
万葉集(759年頃)には、大伴家持が鰻を詠んだ唄が2首、乗っています。1つは、巻十六の3853で「石麻呂尓吾物申夏痩尓吉跡云物曽武奈伎取喫(石麻呂に 吾れもの申す 夏痩せに よしといふものぞ 鰻とり食(め)せ)」という唄です。
これは、大伴家持が吉田連老(字名が石麻呂)という人に贈った唄で、吉田という人は、身体がひどく痩せていて、いくら飲んでも食べても、飢えた人の様に少しも肥えなかったそうです。そこで、「石麻呂さん、あなたはかわいそうなくらいに痩せている。うなぎは夏痩せに良いと聞いているから、うなぎを取って食べなさい。」という意味で、少し、おせっかいな唄です。
しかし、この歌から、当時、既に「鰻を食べると太って健康になる」ということが知られていたことが分かります。
もう1種は、この唄の次で巻十六の3854、「痩々母生有者将在乎波多也波多武奈伎乎漁取跡河尓流勿(痩す痩すも 生けらばあらむを 将(はた)やはた 鰻を漁(と)ると 河に流れな)」と唄われています。
これも、大伴家持が吉田連老という人に贈った歌とされています。この唄は、「いくら痩せていても、じっとしていれば生きていられるものを、もっと元気になってやろうと思って、鰻を取ろうと思って川に入って、水にながされるなよ」と言う意味です。
最初の歌で、吉田のことを心配している風に「鰻を取って食べて、元気づけた方が良い」と言っておきながら、次の歌で「でも、鰻を取りに行って川に流されるなよ!」と言っているのですから、吉田のことを馬鹿にしている感じです。大伴家持や吉田連老という人が、どのような人であったかは分かりませんが、このようなくだらない唄が後世に残ってしまうのもどうかと思います。
しかし、奈良時代には、鰻が食べられていたこと、健康に良いと考えられていたことが分かります。ただ、どのような調理法であったかは分かりません。
「蒲焼」と言う言葉が、初めて文献に登場したのは室町時代に記された「鈴鹿家記」だそうです。応永6年(1399年)6月10日庚申、神事の朝振舞の条に「汁:スマシ、生鱸(スズキ)、コンブ。仁物(にもの):イリコ、コンニャク。鱠(なます):ハエ、シヤウガ、アサ瓜、クラゲ。引て刺身:鯉、イリ酒、ワサビ。鱣(うなぎ):かば焼。鮒スシ。カマボコ。香物。肴種種。臺物五ツ。」とあるそうです。
しかし、当時の鰻の蒲焼は、現在の調理法とは異なり、ウナギを開かずに、そのまま串に刺して焼いていたようです。このウナギの丸焼きの様子が、蒲の穂に似ていることから「蒲焼(がまやき)」と名付けられたと言われています。この「がまやき」が、いつのまにか「かばやき」に変化して、現在に至ると言われています。
その後、室町時代までは鰻をぶつ切りにしたり、小さめのウナギを丸のまま串を打って焼いて、塩で食べたり、酢みそ、辛子酢などで味付けして食べられていたようです。
室町時代末期には、ぶつ切りにしたウナギに醤油や酒、山椒味噌などで味付けした「宇治丸」と呼ばれる料理が登場しました。この料理は、近江の宇治川のウナギが大変美味だった事が由来と言われています。
ウナギの蒲焼が盛んになったのは江戸時代中期からで、江戸前と言えば、ウナギのことだったそうです。そもそも「江戸前」とは「城の前」、すなわち江戸城の東側から大川の西側の範囲をいい、海も含まれましたが、一般的には河川のことだったそうです。すなわち隅田川とか神田川とか、そうしたところが江戸前で、そこで捕れたものが唯一、江戸前の食べ物ということになります。そこで鰻屋の看板に書かれていたのが「江戸前」という言葉だったそうです。(「江戸前」と言う言葉が「江戸前寿司」という意味に変わっていったのは、明治時代の中頃だそうです。)元禄時代(1688年~1704年)には、江戸市中に鰻の辻売りや、鰻屋が現れていたそうです。
1730年(享保15年)の「料理綱目調味抄」には、「鰻、樺焼の仕様いろいろあり。大は悪し、中なる川鰻よし、油多きはあしく、全体なる時、竹刀にて皮を下の方へひたとこわけ、油をとるべし、又、一度焼きて熱き酒を数遍かくれば、油とれ皮もやはらぎてよし」とあるそうです。
また、天保年間の「世のすがた」には「うなぎ蒲焼は天明のはじめ(1782年)、上野山下佛店(ほとけだな)にて大和屋といへるもの初めて売り出す。其の頃は飯を此方より持参せしと聞く。近来はいづ方も飯をそへて売り、又茶碗もりなどといふもあり」と記載されているそうです。また、佛店には大和屋以外に、濱田屋という蒲焼屋もあったそうです。
1700年代に江戸で鰻の蒲焼が広まったのには、千葉県銚子にある、現在のヒゲタ醤油の影響が大きいようです。1697年(元禄10年)、第五代当主、田中玄蕃が原料に小麦を配合するなどして製法を改良し、現在の濃口醤油の醸造法を確立させました。
醤油は主に関西から入って来ていたのですが、薄口で江戸の人の嗜好に合っていなかったようです。田中玄蕃が生み出した濃口醤油がが江戸の人の嗜好に合い、ウナギの蒲焼も大流行していったというのです。
この大流行に伴い、ウナギの調理法も工夫がされていったようです。ウナギのさばき方として、関東と関西では、下記のような違いが言われています。関東では、①ウナギの背中側から開く「背開き」、②串打ち(短い竹串を使用)、③白焼き(そのまま焼く)、④白蒸し(セイロで蒸す)、⑤タレをつけて焼く、という工程ですが、一方の関西では、①ウナギの腹から開く「腹開き」、②串打ち(長い鉄串を編むように刺す)、③白焼き(そのまま焼く)、④タレをつけて焼く、と言う工程が一般的です。
大きな違いは、(1)開き方、(2)串の形状、(3)蒸しの有無、という3点です。しかし、江戸時代の初期は、ウナギの焼き方は、全て「関西焼き」だったそうです。つまり、頭をつけたまま腹から割き、炭火で白焼きをし、タレをからめて仕上げる方法です。
これが、現在、関東で主流な「背開き」に変わったのは、関西は商人の町に対し、関東は武士の町で武家が多かったため、「腹を割く」ことが「切腹」につながるため、「背開き」が広まったという説が一般的です。
ところが、「背開き」に変わっていったのは、もっと単純な理由なようです。江戸では、ウナギの蒲焼が屋台で出されていたことと関係がありそうです。まず、(3)蒸し工程ですが、じか焼きの鰻は冷めると身が固くなるため、いったん白焼きした鰻を蒸して、余分な脂を落とし、柔らかく、ふっくらとした鰻が好まれるようになっていったといわれています。
(2)の串ですが、関東では、蒸す工程が入ったことによって、蒸し器に入れられる程度の大きさで十分であることから、短い竹串が使われるようになっていったそうです。
(1)の開き方ですが、背開きの方が簡単だということが、関東で広まった理由のようです。江戸前の鰻が大流行するにつれ、手間がかからない背開きが広まったというものです。手間がかかると、沢山のお客さんをさばききれないから、合理的な方法が採用されたということです。ちなみに、大阪でも関西風の焼き方をしているお店が、減ってきているという話もあるそうです。 ブログランキングに参加しています!応援お願いします! → ![]() 普段は手軽に作品(写真・イラスト)を公開 とっておきの作品は、こだわりのレイアウトで。 - Petit Homepage Service - 在宅&出勤の高収入アルバイト大募集 登録料やノルマなど一切なし! 初心者・中高年の方でも安心なお仕事です。 スタッフが親切丁寧にサポートします。 PR |
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現在、「おざら」と言えば、山梨県が有名な麺料理の「ほうとう」を冷たい麺で食べる「冷やしほうとう」とも呼べる料理として認識されています。いわゆる、ざるうどんみたいな料理で、ほうとうに使われている麺を茹でた後、冷水でさらし、少し温かい汁につけて食べる料理です。汁は醤油がベースになっていることが多く、煮干しなどで出汁をとり、ゴボウ、ニンジン、ダイコンなどを入れた具沢山の甘辛い熱々のスープです。ざるうどんとの違いは、麺が「ほうとう」の麺である、ということだけでしょうか。
由来が、今一、良く分からないのですが、もともとは。山梨県甲斐市(旧、敷島町)の郷土料理であったという説が広く流布しているようです。ただ、この説をたどっていくと、さらに、もともとは「おざる」ではなく、「おだら」と呼ばれていたという説も出てきます。
この「おだら」の語源は、「お陀羅尼(おだらに)」という仏教に由来するという説があります。一年の無病息災、家内安全などを祈願して陀羅尼経(だらにきょう)というお経を読む「お陀羅尼(おだらに)」という仏教の催事の際、その法事の後に食べられていた麺料理を「おだら」と呼んでいたという説があるのです。この時、麺は特にこだわりがなく、冷麦のような細い麺から、うどんのような(ほうとうのような)少し太い麺など、いろいろと食べられていたようです。熱々の麺料理は、法事に多くの人が来た場合、準備をすることが大変ですので、麺をあらかじめ茹でておき(冷えていても問題なく食べられます)、汁は別に温めて出されていたようなのです。このため、山梨県甲斐市近郊では、「おだら」という食べ物が昔からあったものの、現在の「おざる=冷やしほうとう」とは少し、異なる認識だったようです。
この「おだら」が、何故、いつから「おざる」になったのかは、商売上の秘密があるようです。「おざら」を初めて商品化したお店として有名なお店が、甲府市内にあります。それは、JR甲府駅から徒歩5分くらいの場所、山梨県甲府市丸の内にある「ちよだ」というお店だそうです。「ちよだ」は昭和16年(1941年)の創業で、1970年頃頃に山梨県敷島町(現、甲斐市)の田舎料理である「おざら」をメニューに取り入れたそうです。ここのおざらは、麺はほうとうに使用する幅広の平麺で、ツユはしょうゆ味の温かいものです。 これが、「おざら」として売り出された最初のようです。
もともと「ほうとう」は、熱々の料理のため、夏の時期は売上が落ちたそうです。そこで、「冷やしほうとう」とも呼べる「おざる」を売り出したところ、他のお店も真似をするようになり、山梨県内に広がっていったようです。このため、「おざら」は夏期限定のメニューであることが多いようです。
この時、何故、「おざら」と命名したのかは不明ですが、「ざる」に乗せて食べることから、とも「おだら」が甲府なまりでは「おだら」に聞こえるから、などいくつかの説があるようです。
真偽のほどは分かりませんが、もっと商売上の理由があるという説もあります。実は「おだら」は、2000年(平成12年)3月3日にある方が商標登録をしてしまったため、それまで「おだら」と呼んでいたお店は「おだら」が使えなくなり、仕方がなく「おざら」に変更したという話があります。このため山梨県製麺協同組合は、2000年(平成12年)6月2日に「おざら」を商標登録し、山梨県内のほうとう専門店に「おざら」で統一するよう指導していったというのです。
この話が真実であれば、「ちよだ」が最初に売り出した料理は、「おだら」だったのかもしれません。もともと敷島町付近の郷土料理は「おだら」だったという説があるのですから、名前のみ、2000年になって変更した、ということも理解できないこともありません。
実際、2008年5月、山梨県中小企業団体中央会のインタビューで、山梨県製麺協同組合、専務理事の八代善雄氏は「おざらは、1998年頃、冬場に楽しむほうとうを夏場にも楽しめるように開発した」と言っています。この辺りは、「おざら」と「おだら」の商標登録も含めた説明として、十分、理解できる話になっています。
現在、山梨県の製麺会社のウェブサイトなどでは、「おざらは、山梨県製麺協同組合の統一ブランドです。」と記載されていたりして、山梨県製麺協同組合として「おざら」を統一して販売促進していることがうかがわれます。
実際に、おざらを食べてみますと、幅広麺であるものの、コシはなく、正直に言って、「こんなものか」という程度の感想でした。私は、根菜や芋などと一緒に味噌味で煮込んだ熱々の「ほうとう」の方が美味しいと思いました。私は、暑い夏でも、山梨に行ったら、熱々の「ほうとう」を食べたいと思います。
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おやつとして食べられることが多いスナック菓子のポテトチップスですが、ポテトチップス(Potato chips)は米語で、英語ではクリスプ(Crisps)、日本ではポテトチップスのほかにポテチ、チップスなどと言われている食べ物です。
ポテトチップスは、1853年7月にアメリカ、ニューヨーク州のサラトガ・スプリングス(Saratoga)にあるムーン・レイク・ハウスホテル(Moon Lake Lodge)というホテルのレストランで生まれたという説が一般的です。
このホテルのレストランで食事をしていた、ある客が「フレンチ・フライが厚すぎる!」と文句を言ったそうです。そこで、ジョ-ジ・クラム(George Crum)というフランス人コック長がいつもよりも薄いフレンチ・フライを作ったのですが、それでも「厚い!」と文句を言われたそうです。そこでジョ-ジ・クラムは頭にきて、文句を言った客が驚くくらいの薄いフレンチ・フライを作って出したそうです。
ところが、そのフレンチ・フライがあまりに美味しく、評判になり、サラトガ・チップス(Saratoga Chips)という名でレストランのメニューに登場するようになったそうです。
その後、この料理の噂が広まり、ニューイングランド地方に広く普及したそうです。アメリカで生まれたポテトチップスは、フランスで好まれるようになり、1870年頃にはヨーロッパでも広まっていたようです。後日、発祥を記念し、1976年7月、このホテルの跡に記念碑が建てられたそうです。
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肉圓は、半透明で少しつぶれたような球状で、ドロッとしたソースがかかっています。これは、北京語でロウユェン、台湾語でバーワンと呼ばれている食べ物で、台湾式肉団子とも言われているようです。外側の半透明の部分は、いわゆる皮のようなもので、その内側には肉の塊が入っています。
外側の半透明の部分は、ブニブニと弾力があり、お餅に近いような食感ですが、モチとは全然、違います。この部分は、主にサツマイモの粉や片栗粉に米粉やタピオカなどのつなぎを入れた生地だそうです。蒸すと半透明になるのが特徴です。真ん中にある肉団子は、豚肉をメインとして、シイタケ、タケノコなどが入っています。
彰化県の北斗地区が発祥の地と言われ、当初は、サツマイモを乾燥させて粉にした後、三角形にこね、蒸した食べ物で、餡は入っていなかったそうです。その後、多くの改良が加えられ、豚肉、タケノコなどの具材が入るようになり、いまの「肉圓」の形になっていったようです。
肉圓の材料、タレ、調理方法は、地域で異なるようです。北部地域では、餡にタケノコの千切りや豚肉などが入っていて、お店では肉圓を食べやすいように切って提供することが多いようです。一方、南部地域ではシイタケ、タケノコの角切り、豚肉などが入っていて、肉汁本来の味を保つため、肉圓を切らずに提供しています。
また、タレは大きく分けると甘口、辛口の2種類がありますが、甘辛いソースもありますので、お店によって異なります。一般的に、北部地域では、トマトソースをベースにしたピンク色の甘口が多く、南部地域では伝統的な醤油とおろしニンニクを合わせた塩味のきいた茶色いタレが多いようです。
調理方法は、蒸す場合と油で揚げる場合の2種類があります。蒸した場合は、皮がプリプリして半透明で油っこくありません。一方、油で揚げた場合は、餡の香ばしさが閉じ込められ、パリッとした食感が楽しめます。
さらに冷やして食べる「涼圓(水まんじゅう)」も肉圓の一種です。ビー玉のように透き通っていて、いかにも涼しげです。作り方は肉圓とほとんど同じで、蒸した後に冷まして醤油につけて食べます。夏の暑さが吹き飛ぶおいしさです。
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トルソッピビンパッは、全羅南道全州市の郷土料理です。トルソッと呼ばれる1人用の石の器で調理するのが特徴です。石焼ピビンパッが登場したのは 1970年代に入ってからのことだそうです。もともと家にある余り物で作るものだったピビンパッは、ステンレスやプラスチックの器で作られていました。それを、「チゲ同様に火にかけて最後までアツアツで食べられるピビンパッが欲しい!」との要求で、トルソッピビンパッが生まれたのだそうです。
ジリジリ焼けたアツアツの石鍋に盛られた御飯とナムル、肉などと、コチュジャンがまんべんなく混ざるまで、かき混ぜて食べます。パリパリの食感のご飯もまた、魅力です。保温性に富んでいるので、最後まで温かいまま食べられます。 ブログランキングに参加しています!応援お願いします! → ![]() wpXレンタルサーバー 3ヵ月、6ヶ月、12ヶ月…。好きなだけホームページやろうよ。 月額500円(税抜)からのホームページサービス、プチ。 |
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