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屋台餃子とは、高知県で食べられている餃子です。酒飲みが多い高知県には屋台文化があり、飲んだ後の〆で屋台のラーメンを食べる時、ラーメンだけではなく、餃子を食べることも多かったそうです。そのうち、酒を飲んだ後は屋台の餃子で〆る、という文化が生まれ、屋台だけでなく、餃子専門店も増えていったそうです。
その後、屋台の餃子は「屋台餃子」と呼ばれるようになり、現在では高知名物の一つに数えられるようになったそうです。飲んだ後の〆として食べられる餃子ということから、小ぶりで女性にも食べやすい大きさです。
また、一番大きな特徴は、一般の餃子の皮の半分程の薄皮で包んだ餃子を、焼いたとも、揚げたとも違う独特の作り方で焼き揚げた黄金色の見た目と、パリパリとした食感です。
餃子の餡には豚肉、キャベツ、ニラ、ニンニク、ショウガなどの定番が使用されていますが、野菜の割合が多く、生産量日本一の高知県産のニラとショウガを使用していることが多いようです。薄皮で野菜が多く、軽い食感という、通常の餃子とは全く違い、一度食べるとヤミツキ間違いなしの餃子です。 ブログランキングに参加しています!応援お願いします! → ![]() 年間920円(税抜)からの格安ドメイン取得サービス─ムームードメイン─ お名前.com PR |
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「デミカツ丼」とは、その名の通り、トンカツにデミグラスソースをかけた丼です。カツ丼の1種であると言えるかもしれませんが、一般的ではなく、岡山市のご当地グルメとして有名です。「デミカツ丼」は「デミグラスソースカツ丼」、「ドミグラスソースカツ丼」、「ドミカツ丼」などとも呼ばれています。
岡山市の料理店「味司 野村」の創業者である野村佐一郎氏が、東京の帝国ホテルで料理修行中に考案したのが発祥だそうです。野村氏は、帝国ホテルのドミグラスソースのあまりの美味しさに感動し、「このドミグラスソースをご飯に合わせて地元のみんなに食べさせたい」と思ったそうです。
その後、昭和6年に岡山市に「味司野村」を創業した時、試行錯誤の上、ご飯とドミグラスソースとトンカツを一緒に食べるという食べ方にたどり着き、この個性的なカツ丼を生みだしたそうです。(現在は、4代目だそうです。味司 野村のドミカツ丼は、ロースカツとヒレカツの2種から選ぶことができます。)
デミカツ丼は、岡山市民に評判となり、他の大衆食堂、喫茶店、洋食店、ラーメン店などでも同様の料理を提供するようになり、岡山市中心市街地では、多くの店でデミカツ丼を出すようになったそうです。
デミカツ丼は、丼に飯を盛ってデミグラスソースをかけ、その上に千切りキャベツを乗せ、さらにその上から揚げたての豚カツをいくつかに切り分けて乗せて、さらに、その上からデミグラスソースをかけるものと、デミグラスソースの中にくぐらせた豚カツを乗せるものの2パターンがあります。トッピングとして、グリーンピースを数個乗せたり、うずらの生卵を乗せたりする場合もあります。
なお、岡山市でデミカツ丼を古くから提供しているお店では、「デミカツ丼」を単に「カツ丼」としてメニューに記載し、一般的な卵とじのカツ丼は「卵とじカツ丼」、「卵カツ丼」、「カツたま丼」などと記載していることが多いようです。 ブログランキングに参加しています!応援お願いします! → ![]() 春の新生活応援キャンペーンのアンケートで商品券をプレゼント♪ wpXレンタルサーバー |
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韓国のお粥が「チュッ」です。「チュッ」は、お米などの穀物に水を6~7倍加えて、長時間コトコト煮た料理です。日本では、米の形が残っていることが多いと思いますが、韓国のお粥は、米の形を残して作る場合と、米をミキサーですりつぶしてポタージュのようにする場合の2種類があります。また、水で作る場合のほか、ダシをとったスープで煮詰めて作り場合もあります。
「タッチュッ」は鶏肉のお粥です。「タッ」は韓国語で「鶏」の意味です。夏場の滋養食として人気がある料理です。鶏を丸ごと使ってだしを取り、肉は別にあけて食べます。スープの脂分を取り除いてから、もち米や普通の米を入れて煮込みます。米が柔らかく粥状になったら鶏肉を戻して、塩で味つけをして完成です。
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「おきゅうと」は福岡県福岡市を中心に食べられている海藻の加工食品です。福岡出身の人にとっては極当たり前の食べ物で、子供の頃から良く食べていたとのことです。博多の料理屋さんで食事をした時、突き出しとして出されたのですが、初めて見たので、お店の人に「これは何ですか?」と聞いたところ、「おきゅうとです。」と言われたのですが、正式名称が「おきゅうと」なのか、「おきゅうとう」なのか、また、これが一体、何なのか、全く分かりませんでした。ただ、時代が変わったので、その場でスマホで調べたら「おきゅうと」という食べ物だということが分かりました。「おきゅうと」は「おきうと」、「お救人」、「浮太」、「沖独活」などとも表記されるそうです。
見た目は薄い板状のコンニャクのようですが、箸でつまんでみるとコンニャクとは異なり、とても柔らかく、食べてみるとトコロテンのような感じで海草のような風味がありました。
おきゅうとは、日本海側だけで採れる海藻「エゴノリ(えご草、おきゅうと草、博多では「真草」とも呼ばれる)」と「イギス(沖天、博多では「ケボ」とも呼ばれる)」という固める作用を持つ海藻をブレンドしたものが基本的な材料だそうです。これらをそれぞれ水洗いして天日干しし、エゴノリとイギスを7:3~6:4の割合で混ぜ、よく叩きます。その後、酢を加えて煮溶かしたものを裏ごしして小判型に成型し、常温で固まらせたら完成です。
食べ方は、5mmから1cmの短冊状に切り、鰹節の上にオロシ生姜や刻みネギを乗せ、生醤油で食べるか、または芥子醤油、ポン酢醤油やゴマ醤油などで食べるのが一般的だそうです。博多では、朝御飯のおかずとしてよく食べられているそうです。成分は96.5%が水分で、タンパク質が0.4%、炭水化物が3%、灰分が0.2%とのことで、栄養価はそれほど高くないようですが、独特の食感が人気のようです。
「おきゅうと」の歴史は古く、記録によれば、江戸時代に初めて箱崎(福岡県福岡市)で作られたそうです。江戸時代の本草学者・儒学者である貝原益軒が編纂した「筑前国続風土記」には「うけうとと云物、此類(いぎす)なり。糸紫なり。是亦毒あり」と記載されているそうです。筑前国風土記は1688年(元禄元年)から編纂を始め、1709年(宝永6年)に完成した書物です。
また、1738年(元文3年)に筑前の黒田藩が幕府に差し上げた「筑前国産物帳」という書物にも「うけうと」という名前で「海中ニ生ズ、枝多ク節々連生ス。淡紫色。久シク煮レバ化シ膠凍ト成ル。味佳ナラズ」と記載されているそうです。
この「おきゅうと」の語源には諸説あり、明確ではないようです。エゴノリがウドのように早く育つということから「沖のウド」→「沖独活(おきウド)」→「おきゅうと」と転化したという説が一般的なようです。
このほかにも、上述した筑前続風土記の中に「此外、海藻甚多し。悉く記し難し。凡凶年に貧民海草を取て食とする事、野草より多し。」という記載があることから、昔、飢饉の時に非常食として食べられ、多くの人を救ったことから「救人(きゅうと)」と呼ばれたという説もあるそうです。
さらに沖の漁師(あるいは、沖から来た人)が作り方を伝えたということから「沖人(おきひと)」→「おきゅうと」となったという説があるそうです。
江戸時代から明治、大正と時代が変わると、箱崎では海苔の養殖とともにおきゅうとを作って売る家が増え、木箱に並べて行商をしていたそうです。そのため、1本からでも売りやすいように、丸めていたそうです。現在でも博多では、小判型のおきゅうとをくるくると丸めたものが売られており、当時の名残だそうです。
また、第二次世界大戦前、博多の町では明け方より、他の地方の「納豆売り」や「しじみ売り」のように「おきゅうと売り」がリヤカーを引いて売り歩いていたそうです。昭和の時代、博多では、おきゅうとは朝ごはんの定番だったそうです。
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酸菜とは、「芥菜(からし菜)」の漬物です。「芥菜」とは、アブラナ科アブラナ属の野菜で中国原産だそうです。小芥菜(カラシナ)と大芥菜(タカナ)の二つの系統があります。葉には特有な香りと辛味があり、漬物や炒め物に用いられています。
台湾では、昔、農閑期を利用して芥菜(高菜)を植えていたそうです。しかし、野菜は保存が難しいため酸菜、福菜、梅乾菜などに加工して長期保存ができるようにしていたそうです。
新鮮なカラシナを日光にさらした後、塩水に1日漬けた後、脱水してから重石をして15~20日ほど発酵させて作るそうです。客家料理では、豚の胃と鹹菜を煮込んだ料理(鹹菜炆豬肚)などが有名だそうです。
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