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CATEGORY[韓国]
コメント[ 0 ] 2017年09月09日20:33
 「チムタッ」の「チム」は韓国語で「蒸す」という意味で、「タッ」は「鶏」の意味です。したがって、「チムタッ」を直訳すると「蒸した鶏」という意味になります。しかし、実際の「チムタッ」は、「蒸した鶏」という言葉のイメージとは、少し、違う料理です。
 「チムタッ」は、鶏を丸ごと一羽、ブツ切りにして、ジャガイモ、玉ネギやニンジンなどの野菜と韓国春雨(タンミョン:唐麺)を醤油、砂糖、ゴマ油などで味付けをしたタレに、大量の唐辛子を入れて煮込んだ料理です。
 お店での注文は1羽単位が基本だそうです。大勢で食べる時は1羽半、2羽といった具合に半身ずつ追加することもできるようです。結構、ボリュームがある料理で、一般的には3~4人で食べることが多いようですが、非常に美味しいので、2人でも1羽を食べられてしまいます。
 チムタッの発祥の地は、慶尚北道の安東(アンドン)市の市外バスターミナル近くにある旧市場だそうです。もともとは「タットリタン」という鶏肉と野菜を辛く煮込んだ鍋料理だったと言われています。このタットリタンをお客さんの要望に応じてアレンジしていった結果、現在のような料理になり、周辺の地域に広まっていったそうです。2001年頃にはソウルで大流行し、「安東チムタッ」という名前を出したお店が沢山、できました。
 骨ごとブツ切りにした鶏肉と一緒に煮込む野菜は、人参、ジャガイモ、玉葱などが一般的です。野菜類を煮込む時、刻んだ唐辛子を入れるため、見た目以上に辛い味つけに仕上がっています。また、煮込む時には、韓国春雨を下に敷くので、鶏と野菜の旨みと混じりあった煮汁をたっぷり吸った春雨が絶品です。


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CATEGORY[京都]
コメント[ 0 ] 2017年08月19日18:57
 「ピネライス」は、京都生まれのワンプレート洋食です。京都の人なら知っていて当然というくらいに知名度の高い料理だそうですが、京都の人以外には知られていない料理ではないでしょうか。
 「ピネライス」とは、チャーハンの上にトンカツをのせて、特製カレーソースをかけた料理です。京都市の西陣にある「キッチン・ゴン」というお店の店主が生み出した料理で、京都の人なら誰もが知っているくらいの知名度がある料理だそうです。
 「ピネライス」を考案したのは、オーナーシェフの権藤吉彦さんだそうです。アメリカのニューヨークのアイリッシュパブに5年間単身赴任し、生活していたこともあるそうです。流れ流れて東京の渋谷で働いていた時代に考案したのがピネライスだそうです。「ボリュームのある美味しい洋食を、気軽に食べてほしい」という思いから考えついたのだそうです。当時は、その珍メニューを真似するライバル店もあったそうですが、その後、1970年に東京から京都に来て店を構えてから、京都で市民権を得る料理になったようです。
 名前の由来はフランス語のスラング(フランス地方の方言)で、「ピネ」とは「薄いカツ」という意味だそうです。
 ちなみに「ピネライス」は、アレンジが自在で、いろいろな形で注文することができます。定番は「チャーハン」、「トンカツ」、カレー」の組み合わせですが、チャーハンをドライカレーにしたり、ガーリックチャーハンにできます。またカレーをハヤシライスにすることもできます。さらにトンカツをビーフカツにすることもできます。
 定番のプレーンチャーハンの具は玉ネギ、ハム、玉子のみのシンプルなものです。塩コショウベースのシンプルな味わいに、玉ネギの甘みとハムの塩気、玉子の優しさが一体となっています。これだけでも普通に美味しいです。この上に乗せるカレーソースは牛肉から取ったスープに、スパイス約10種を合わせて作られています。トンカツは厚さ約5mmと薄めですが、チャーハンの上にみっしり乗っています。京都に行ったら、是非、食べたい一品ですね。


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CATEGORY[栃木]
コメント[ 0 ] 2017年05月06日23:29
 佐野ラーメンとは、栃木県佐野市を中心とした地域で食べられているラーメンです。関東地方のご当地ラーメンの一つです。
 佐野ラーメンの歴史は、大正初期に始まると言われ、当地に住んでいた中国人が伝授し、地域の人々の感覚で育てられ、現在の味の礎を作ったそうです。織物が盛んな頃、繊維業者や深夜まで働く女子工員などを相手に広まっていったようです。値段が安く、子供から老人にいたるまで、万人に好んで食べられていた郷土食です。
 麺は、青竹を使って打つことが特徴です。青竹に脚をかけ、青竹の下に麺の材料となる練った小麦粉の塊を置いて、体重をかけて延ばしていきます。青竹打ちの麺は、中に気泡が多いため熱伝導が良く、短い時間で茹で上がります。腰が強い美味しい舌ざわりが味わえます。太さは中太から細麺、平打ちなど、店によって異なります。
 スープは、透明感のあるあっさりした味が特徴です。コクのある醤油味が主流のようですが、鶏ガラ、豚骨など、店によって異なります。
 具材についてはチャーシュー、刻み長ネギ(白ネギ)が入ることが多いようですが、これも店によって異なります。
 麺、スープ、具の組合せが店によって異なるため、見た目だけでは何が佐野ラーメンか、分からないようです。しかし、一貫したコンセプトとして、「毎日食べられるラーメン」という点があるようです。佐野ラーメンについては、「普通のラーメン」という説明が多いようですが、むしろ、この点が佐野ラーメンの大きな特徴だと言えます。
 佐野市近郊にはゴルフ場が沢山あり、関東各地からゴルフに来た人達がゴルフ帰りに食べて、口コミで広まっていったようです。


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CATEGORY[日本]
コメント[ 0 ] 2017年04月06日15:20
 日本でのポテトチップス製造の元祖は、ハワイでポテトチップスの製造を学んだ浜田音四郎(明治44年11月生まれ)氏だそうです。浜田氏は終戦後、ハワイから帰国し、故郷で数年過ごした後、上京しました。
 当時の日本の食糧事情の酷さに驚き、ハワイにいる時に作り方を覚えたポテトチップスを製造、販売する会社を興すことを決意し、昭和23年に牛込納戸町に小規模のバッチ式手揚げの「アメリカン・ポテトチップ」と言う会社を設立し、「フラ印」として販売を開始しました。これが、日本でのポテトチップス製造の元祖です。
 当初は、北海道のジャガイモを原料に使用し、新宿と市ヶ谷で売り出したそうです。当時は35gで36円だったそうです。この頃は、主にアメリカ軍のキャンプに納品していたそうです。当時の日本人には、ポテトチップスの美味しさは理解されず、全く見向きされなかったそうです。
 そこで浜田氏はビヤホールやホテルなどを回って宣伝に努め、ビールのつまみとしてPRした結果、1年後には順調に売れるようになったそうです。
 昭和30年代には高度成長経済と食の欧米化の波にも乗り、ポテトチップスもスナックとして多くの日本人に知られるようになっていきました。ここで忘れてはならないのは、浜田氏は、ポテトチップスの製法を秘密にしなかったことです。むしろ、多くの日本人に教え、その方々がポテトチップスを販売することによって広く普及していきました。この結果、現在では、ポテトチップスは大人から子供までに好かれるスナック菓子にまで成長しました。
 濱田氏は、事業以外でも様々な活動、活躍をされた方だそうです。昭和23年には「日本ハワイ協会」の設立に参加(昭和33年には第五代会長に就任)し、ハワイと日本の交流に力を尽くしました。大相撲の初の外国出身の関取である高見山を日本に紹介したのも濱田氏だそうです。また、日本赤十字社をはじめ、多額の寄付を通じ社会貢献にも熱心に力を入れておられます。
 こんな浜田氏の活動によって、日本でポテトチップスが広く知られ、食べられているのですね。感謝感謝、ホイ。


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CATEGORY[香川]
コメント[ 0 ] 2017年03月20日10:48
 しょうゆ豆は、香川県の伝統的な郷土料理です。外見は黒豆のような大きさ、色をしているので煮豆だと思いますが、煮豆と違って歯ごたえがあります。また、醤油に漬け込んでいるため、甘くはありません。軽く噛むと口の中でポロッとくだける歯ごたえが楽しめます。予想外の不思議な食感です。
 天日干しして乾燥させたそら豆を焙烙に入れ、皮に焦げ目がつくまで炒った後、砂糖、醤油、みりん、唐辛子を合わせた調味タレに一晩、漬けると完成です。
 しょうゆ豆の発祥には諸説があり、はっきりしないようです。弘法大師空海にからめた説としては、空海が四国、八十八ケ所を巡礼中に、ある所で炒っていたソラ豆がはじけて、横にあった醤油桶の中に入ってしまったのだが、そこに通り合わせた空海が、それを食したところ美味であったので醤油豆の作り方を広めた、というものがあるそうです。
 さらに八十八ケ所参りにからめて、各寺を巡っていたお遍路さんを接待しようと、あるお婆さんが焙烙でソラマメを煎っていたところ、たまたま近くに置いてあった醤油の壷の中に飛び込んでしまった。しばらくして、お婆さんが何気なく、それをつまんで口に入れたら、意外に柔らかく、しみ込んだ醤油の味が美味しかったので、これが広まったという説もあるそうです。
 讃岐でしょうゆ豆を作り始めたのは、藩政時代からで、文禄年間(1592~1596年)に醤油の醸造を始めた小豆島が発祥の地であるという説もあるそうです。
 その小豆島で醤油の製造が始まったのは、天正末~文禄初年頃(1592年~1594年頃)と言われているそうです。天正19年(1591年)の春、大阪城を建設していた頃、紀州湯浅の赤桐家が太閣秀吉に醤油と米を献上し「天下一の調味料」と激賞されたそうです。この時、小豆島では全島に渡って、大阪城築城の石材を切り出していたそうです。大阪城で築城している際、小豆島の人が紀州湯浅の醤油に興味を持って、湯浅で製造方法を教えてもらったのだそうです。そして天正末年~文禄初年頃には醤油が造られ始めたと言われているそうです。
 これは史実ですから、空海説は完全な後付けだと思われます。江戸時代には八十八カ所の巡拝として四国遍路が定着し、大衆化していたようですから、お遍路さんにからめた説を否定する証拠はないようです。
 また、香川県は蚕豆の生産量が多いのだそうです。香川県農業生産流通課によると、ソラマメはいわゆる新豆と呼ばれ、塩茹でして食べられる未成熟ソラマメと、爪の部分が黒くなるまで熟れた成熟ソラマメの2種類に分類されます。干してしょうゆ豆に使うのは後者の成熟蚕豆です。
 しょうゆ豆は皮ごと食べるため、皮に含まれている豊富な食物繊維を摂ることができます。また、そら豆はピーナッツや大豆に比べて低脂肪であり、ヘルシーな食材です。
 しょうゆ豆は、あっさりとした豆の風味と素朴な味付けで飽きのこない一品です。となっています。御飯のおかずにもあうし、お酒のつまみにもぴったりです。
 現在では土産物として空港や駅の売店でも売られています。香川県以外では食べることができないしょうゆ豆、是非、一度、ご賞味ください。


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