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CATEGORY[名古屋]
コメント[ 0 ] 2016年06月12日22:44
 「あんかけスパゲッティ」とは「あんかけスパ」とも言われ、軽く炒めた太目の麺に、少しスパイシーなソースがかかったスパゲッティです。あんかけスパゲッティは、1960年代に愛知県名古屋市で登場したスパゲッティ料理です。イタリアンのパスタとは全く別の食べ物です。茹でたスパゲティにソースを和えるイタリアのパスタとは異なり、あらかじめ茹で置きしておいた太いスパゲッティを、焼きそばのように、ラードや植物油で炒め、中華料理の餡のような粘性とコクのある辛味の効いたソースをかけた料理です。この辛味の元は、胡椒をたっぷりと使うためですが、味のベースはトマト味です。
 あんかけスパは、名古屋市中区栄にある「そ〜れ」というお店で山岡博氏が生み出した料理だそうです。
 「そ〜れ」は、山岡博氏が親せきと共同経営で1961年に開業したお店です。山岡博(横井博)氏(当時28歳)は、1959年(昭和34年)頃、丸栄ホテル(現:名古屋国際ホテル)で洋食の調理人として働いていたそうです。山岡(横井)氏は、当時、独立を目指して、いろいろな味の工夫に励んでいたそうです。
 そして1961年(昭和36年)に親戚と共同出資で、名古屋市東新町に「そーれ」というお店を開業しました。この店で山岡(横井)氏は、イタリア家庭料理のミートソースを名古屋の人たちの好みに合うように改良したソースを作って、麺にかけて提供したところ、好評を博し、次第に広がっていったようです。
 その後、1963年(昭和38年)に横井博氏(山岡博氏)が独立し、「スパゲッティ・ハウス ヨコイ」を立ち上げました。現在では、「そ〜れ」があんかけスパ発祥の店として知られています。ただ、当時は「あんかけスパ」という名称ではなく、「オリジナルミートソース」と呼ばれていたようです。
 「あんかけスパ」という名称は、1979年に名古屋の千種区本山に開業した「からめ亭」の店主だそうです。名古屋名物の「あんかけうどん」を見た「からめ亭」の店主、志智均氏が「あんかけスパゲッティ」と命名し、テレビ番組で発表したことから広まったようです。このため、「からめ亭」のHPには、「あんかけスパゲティー名づけ親」と書かれています。「あんかけスパ」という名称が広まっていったのは、1980年代のようです。
 あんかけスパは、普通のスパゲッティとは異なる点が多々、あります。いくつかの点を下記にまとめます。
1. 麺
 麺は、2.2mmという極太の麺が主流です。初めて食べた時、あまりの太さにびっくりしました。あんかけスパを生み出した山岡博(横井博)氏は、オリジナルのミートソースに合う麺として業者に2.2mmを作るよう依頼したそうです。茹でた後にラードで軽く炒めるため、麺が細いと切れてしまうので太い麺を選定したそうです。軽く炒める事によってソースの絡みを良くするそうです。
 また普通盛りだけでなく、1.2倍、1.5倍、2倍など、麺量を増やした注文ができることも特徴の1つです。(それぞれの実際の量や値段は見せによってまちまちです。)
 関東では、この太さのスパゲッティの麺は販売されていません。最大でも1.8mmくらいではないでしょうか。しかし、驚くことに名古屋市内のスーパーマーケットでは、ごく当たり前のように2.2mmの太さのスパゲッティが販売されていました。
2. ソース
 ソースは、各店、オリジナルのものになっていますので同じではないでしょう。ただ、ある程度の粘度があり、味はトマトベースのミートソースのような感じで、比較的スパイシーなことが多いようです。麺にからむようにとろみがついています。
3. 具
 ネーミングが独特です。肉(ウインナー、ハム、ベーコンなど)がメインの場合は「ミラネーゼ」あるいは「ミラネーズ」と呼ばれます。玉ネギ、ピーマン、トマト、マッシュルームなどの野菜類がメインの場合は「カントリー」と呼ばれます。肉と野菜の両方盛りは「ミラカン」(「ミラネーゼ」と「カントリー」のミックス)と呼ばれます。
 さらに魚介類のフライをトッピングしたものは「バイキング」と呼ばれています。これらのネーミングは名古屋独特のものだと思います。
 また、これら意外にもエビフライ、唐揚げ、ピカタ、オムレツ、ハンバーグなど、様々な種類の具をトッピングできることもあんかけスパの特徴だと言えます。


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CATEGORY[山梨]
コメント[ 0 ] 2016年04月13日08:03
 鳥もつ煮は、その名の通り、鳥のもつ(内臓)を煮た料理です。新鮮な鳥のレバー、ハツ、砂肝、玉道(別名、キンカン。生まれる前の卵。)を鍋に入れ、砂糖と醤油だけで味付けした料理です。鰻の蒲焼のタレのような甘辛い味が、御飯のおかずや、酒の肴に合います。山梨県甲府市近辺で食べられています。
 山梨県甲府市近辺では、1950年(昭和25年)頃から食べられていたようです。当時は「鳥のもつ」は食べられておらず、捨てられていたようです。その「もつ」がもったいないので、安くて美味しい料理にできないものかと考えられ、生まれた料理だそうです。
 この「鳥もつ煮」の発祥は、大正2年(1913年)に甲府駅前で蕎麦屋を開店した「奥藤」の店主だと言われています。「奥藤」で「鳥もつ煮」が誕生したのは昭和25年(1950年)頃だそうです。当時はまだ砂糖が貴重だったため、甘辛いタレで煮られた鳥もつ煮は好評で、甲府一体に広がっていったようです。現在では、甲府近辺の蕎麦屋では、だいたい食べることができます。
 「もつ煮」というと、大鍋で長時間、グツグツと煮込んで作り、汁気がある料理が一般的ですが、奥藤の店主が発案した「鳥もつ煮」は砂糖と醤油で作った少量のタレを煮立たせ、そこに鳥もつを入れ、強火で短時間のうちに照り煮するのが特徴です。
 奥藤では、強火で鍋を素早く振るため、鍋の持ち手が焼けて、すぐに使い物にならなくなってしまったそうです。そのため、奥藤本店では、鍋をペンチでつかんで振るという独特の技法で調理しているそうです。この手法が伝わったため、甲府の鳥もつ煮は水気が飛んで飴状になったタレで鳥のもつをコーティングしたような状態になっています。旨味をぎゅっと閉じ込めて照りを出した料理が、甲府の鳥もつ煮の特徴です。
 この鳥もつ煮に着目したのが甲府市役所です。2008年(平成20年)から、甲府市役所職員の若手有志が、まちおこし団体「みなさまの縁をとりもつ隊」を旗揚げし、「鳥もつ煮」を「甲府鳥もつ煮」という名称でブランド化し、甲府のB級グルメとして全国に向けてPRし始めました。2008年の調査では、甲府市近郊の蕎麦屋51店で「鳥もつ煮」を扱っていたそうです。
 2010年(平成22年)9月18、19日に開催された「第5回B-1グランプリin厚木」に初出場し、ゴールドグランプリ(優勝)を獲得しました。第1回を除くと、初出場で初優勝は初のケースとなりました。甲府近辺の方の話では、B-1グランプリで優勝した後、奥藤には行列ができていたそうです。(最近は、なくなったようですが)
 現在では、単品料理として前菜や酒のつまみ、蕎麦の定食の付け合せなどで食べられているほか、御飯の上に「鳥もつ煮」を乗せた「鳥もつ丼」という形でも食べられています。「鳥もつ丼」では、鳥もつだけでなく、具として竹の子や椎茸などを加えているようです。


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CATEGORY[台湾]
コメント[ 0 ] 2016年03月22日20:00
 豆干(ドウガン)とは、豆腐を干した食べ物です。豆乾とも、豆腐干とも呼ばれます。堅めに作った豆腐を圧縮し、脱水して作ります。料理の食材としてや、お菓子として利用されています。また、豆腐が凝縮された豆干は、とても硬いのですが、これを煮込んで味をつけた料理も「豆干」と呼ばれています。
 台湾国内では、豆干は、桃園県にある大渓という町が有名だそうです。大渓での豆干作りは、1921年頃にさかのぼることができるそうです。最初に製造を始めたのは「萬里香」(もともとの店名は「明栄豆干店」だったそうです。)だそうです。その干し豆腐の製造技術は、林絨さんから習ったそうです。
 その後、現在も大渓で営業を続けている「黄日香」をはじめ、いろいろな業者が次々と参入していったそうです。
 大渓で豆干作りが発展したのには、いろいろな理由があったようです。まずは、豆腐作りに重要な水の問題です。水は豆製品の品質のよしあしを決める大きな鍵になります。大渓では、地下水や天然井戸水使って豆干を作りましたが、この軟性の地下水をろ過すると非常に良い品質の豆干ができたようです。
 また、当時は林業と鉱業が盛んだったようですが、これらの作業者はあまり裕福ではありませんでした。山仕事へ向かう際、途中にある大渓で醤油漬けにした豆干を買って、お昼御飯やおやつ代わりに食べていたようです。さらに、正月などの休みには、お土産として故郷に持ち帰り、台湾中に大渓の豆干の美味しさが広まっていったそうです。


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CATEGORY[韓国]
コメント[ 0 ] 2016年02月24日08:13
 「アグ」というのは韓国語でアンコウ(鮟鱇)のことで、「タン」とは漢字で「湯」と書き、「鍋料理」の意味です。ですから「アグタン」とは、「アンコウの鍋料理」のことです。日本と同じく冬の味覚の代表です。
 アンコウの骨などでとったスープに、ブツ切りにしたアンコウ、豆モヤシ、セリ、長ネギ、青唐辛子などの野菜、キノコ類、ミドドッ(エボヤ)などを具として入れ、みじん切りにしたニンニク、ショウガ、粉唐辛子、塩、醤油などで味付けをして作ります。スープの色が白い(赤くない)場合と、真っ赤なスープの場合と2種類、あるようです。(お店によって違うようです。)
 アンコウの身は、ワサビ醤油につけて食べることもあるようです。主に専門店で食べるメニューで、多くの専門店があるそうです。大きな鍋で作って、大勢で囲んで食べるのが一般的ですが、店によっては1 人前のアグタンを出すところもあるようです。また、専門店の多くではワタリガニの料理を一緒に出しているそうです。
 ソウル市内では、新沙洞(シンサドン)や方背洞(パンべドン)にアンコウ料理の専門店が密集しています。また、慶尚南道の馬山(マサン)市や、仁川(インチョン)広域市がアンコウの本場として有名です。中でも馬山市は、アンコウ料理を全国に普及させた元祖の町として広く知られています。
 今では、韓国全土で親しまれているアンコウですが、盛んに食べられるようになったのは、わずか50年ほど前からだそうです。それ以前は、獲れたアンコウは畑の肥料にするなど、食用としては利用されていなかったようです。1960年代に馬山市の飲食店で、干したアンコウを蒸し煮料理にして出したのが食用の始まりだそうです。食事としてよりも、酒のツマミとしての料理として人気が出ていき、少しずつ、韓国全土に広がっていったようです。
 その馬山市でアンコウ料理が生まれた時は、干したアンコウを使っていたそうです。馬山市の午東洞(オドンドン)がその発祥地とされており、現在でもアンコウ料理店がたくさん並んでいるそうです。また、午東洞一帯では、干したアンコウを使う老舗店が多く、元祖アンコウ料理を楽しめる場所として全国から観光客が訪れるそうです。

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CATEGORY[日本]
コメント[ 0 ] 2016年02月14日19:11
 うどんとは、小麦粉に少量の塩水を加え、こねたものを麺状にした麺食品です。茹でた麺をツユにひたして食べたり(つけ麺)、カツオ出汁と醤油で味付けしたかけ汁(かけ麺)で食べる方法があります。手軽な庶民食、米食の代用食として、また、祝い事に際して振る舞われる「ハレ」の食物として、古くから日本全国で食べられてきたようです。このため地域によって、調理法や具材が違っています。
 同じ小麦粉を使って作った麺で、麺が細い「冷麦」、「素麺」、また麺が幅広で薄い「きしめん」、「ほうとう」などがありますが、基本的には別の料理と考えられています。
 うどんの誕生には諸説があって、定かではないそうです。いくつかある説を年代順に並べると、以下のようなものがあります。
 奈良時代に遣唐使によって中国から渡来した唐菓子(からくだもの)の1つである「混飩(こんとん)」だという説があります。混飩は、小麦粉を加工して作られた餡入りの団子菓子だそうです。この混飩を温かい汁に入れて食べるようになり、「温飩(おんとん)」と呼ばれるようになり、さらに、それが転じて「うんとん」、さらに「うどん」になったという説です。
 また、平安時代に弘法大使(空海)が唐から帰った際、うどんの技術を日本に持ち帰ったという説があります。空海は、讃岐国多度郡屏風浦(現、香川県善通寺市)の出身であり、当時、故郷は非常に貧しかったため、故郷の人々にうどんの作り方を教え、広まったという説があります。これにより、讃岐地方では、うどんが広く食べられるようになったと言う説です。
 仁治2年(1241年)に中国から朝鮮半島を通って帰国した円爾(えんに、聖一国師)が製粉の技術を持ち帰ったという説があります。円爾は帰国後、上陸地の博多(現在の福岡市)にて承天寺を開山しました。そこで、中国から持ち帰った饂飩、蕎麦、饅頭などの粉物の食文化を広めたという説です。
 南北朝時代末期の書物である「庭訓往来(ていきんおうらい)」や「節用集(せつようしゅう)」などに「饂飩」や「うとん」の語が現れるそうです。このことから、遅くとも鎌倉時代までには、日本にうどんが入ってきていたものと考えられます。
 現在では、室町時代には現在のうどんの形になり、江戸時代にかけて、うどん食文化が庶民の生活の中に入っていったと考えられているようです。現在のようにカツオだしと醤油で味付けした汁で食べるようになったのは、全国に醤油が出回りはじめた元禄年間(1688~1704)以後のことであり、それ以前は味噌で味付けした味噌煮込みうどんが中心だったと考えられているようです。
 うどんの上に様々な具を乗せた天ぷらうどん、玉子とじうどん、鴨南蛮うどんなどは、江戸時代中期から後期にかけて開発されたようです。現代の形の「うどん」は、江戸時代には全国的に普及し、広く食べられるようになっていたと考えられています。
 江戸時代は「うどん」、「うんどん」、「うんとん」という呼ばれ方をしていたようで、浮世絵に描かれた看板に「うんとん」と書いてあることがあるそうです。明治初期の辞書である「言海」には、「うどんは、うんどんの略」と記載されているようです。
 うどんのかけ汁は各地域によって好まれる味に違いがあるようです。特に、関西と関東では、味付けが大きく異なっています。
 関西では、うどんのかけ汁を吸い物のように出汁の味まで楽しむという文化があり、薄口醤油が使われています。具には、年間を通して瀬戸内海で取れた白身の魚や新鮮な野菜を使うことができたため、素材の風味を消さない薄い味付けの汁になったと考えられているようです。
 一方、関東では濃口醤油で味付けしており、汁が黒っぽい濃い色をしています。関東では具の材料に脂肪分の多い魚や、保存した野菜などが使われていたため、醤油の濃い味付けで食べていたと考えられているようです。
 このような大きな差だけではなく、日本中で様々な種類の「うどん」が存在しています。例えば麺の硬さや太さ、汁の味付け、具の中身など、いろいろな種類があり、一口に「うどん」とくくることができないくらいです。


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