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日本では「北京ダック(ペキンダック)」として知られていますが、中国では「北京烤鴨(ベイジンカオヤー)」、香港では「北京填鴨(パッケンティンアーッ)」、台湾では「北平烤鴨(ペイピンカオヤー)」と呼ばれているそうです。
北京ダックは、炉(窯)の中でパリパリに焼いたアヒルの皮を削ぎ切りにし、小麦粉を焼いて作った「薄餅(バオビン)」あるいは、「荷葉餅(ホーイエビン)」と呼ばれる薄いパンのような皮に、ネギ、キュウリや甜麺醤といっしょに包んで食べる料理です。
日本では北京ダックと言えば、パリパリに焼いた鴨の皮だけを食べるようですが、中国では皮だけでなく、肉自体も食べます。また、皮も薄くそぎ切りにするのではなく、肉も付けて切るようです。したがって北京式の鴨焼き料理といった感じなのかもしれません。
北京料理の代表のように思われますが、そのルーツは、現在の江蘇省南京だそうです。15世紀の明代初期に、その原形がつくられ、永楽帝が遷都した際に北京に伝わったという説が有力だそうです。
北京ダックの原型となる料理は「叉焼鴨」と言われ、南京の別称である「金陵」を冠して「金陵烤鴨(ジンリンカオヤー)」とも呼ばれていたようです。その後、北京の宮廷料理の一つとして確立され、清朝末期の実力者、西太后の好物だったとも伝えられています。
現在の中華人民共和国の建国後は1970年代の米中接近など、外交の舞台でも食されていたようですが、一般市民が、その味を気軽に楽しめるようになるには、改革、開放が本格化した1980年代以降のようです。
北京にある便宜坊烤鴨店は歴史を持つ有名なお店です。日本のガイドブックでは、前門店がオープンした1855年を創業の年と紹介しているようですが、中国国内に16店舗を展開している北京便宜坊烤鴨グループは、「便宜坊」の看板を掲げた同じ製法の店が北京の宣武門近くに開設された明朝永楽14年(1416年)を創業としています。
便宜坊の自慢は、明の時代からほぼ変わらない製法です。内臓を取り除き、皮に水飴を塗ったダックを「燜炉(メンルー)」と呼ばれる炎の上がらない、密閉の窯で蒸し焼きにします。
また中国国内では、清朝末期の1864年に創業した老舗「全聚徳(ぜんしゅとく)」というお店も有名です。この店は、国内外に80近い店舗を展開しており、東京にも支店を出しています。
「全聚徳」は、清代末、肉屋を営んでいた楊全仁がドライフルーツ屋の「徳聚全」を買い取って、「全聚徳」としたのが始まりだそうです。身の丈ほどもある掛炉を作り、孫という山東菜の名料理人がそれを使いこなして大成功しました。これは「挂炉(グワルー)」と呼ばれる扉のない窯でナツメなどの木を燃やし、吊るしたダックを強火であぶる方法です。清の時代に開発されたこの製法は、今では多くの専門店が取り入れています。
「全聚徳」では烤鴨だけでなく、「芥末鴨掌(ジエモオヤーヂャン)」、「火燎鴨心(フオリヤオヤーシン)」、「紅焼鴨舌(ホンシャオヤーショー)」などで構成した「鴨席(チュアンヤーシイ)」という料理も有名です。
これらの老舗のお店に対する評価は、好みによって様々なようです。便宜坊を贔屓にする人は、「全聚徳ほど脂っこくなく、食べやすい」と言う一方で、全聚徳を贔屓にする人は「ナツメの木を燃やすと香りがダックの皮に移り、何とも言えない香ばしさになる」と言うそうです。いずれも美味しいことには変わりなく、後は好みの問題ではないでしょうか。
最近の北京では「鴨王」や「大董」といった新しいお店も人気を集めているようです。さらに、一般の中国料理店でも北京ダックを扱う店が増えていきています。
北京ダックに使われるアヒルは、北京郊外などで飼育されており、「鴨(ティエンヤー)」いう特別に肥育されたアヒルだそうです。チューブで飼料を口に詰めて(中国語で「填」)、太らせるそうです。中国では、詰め込み式の教育方法を「填鴨式教育」と呼ぶそうですが、このアヒルからきているそうです。
焼き方としては、密閉した窯で焼く「便宜坊」の「燜炉烤(メンルウカオ)」、大きく口が開いた窯を使う「全聚徳」の「掛炉烤(グワルウカオ)」と、直火で焼く「叉烤(チャカオ)」の3種類の焼き方があるそうです。
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タウナギの炒めものです。鱔魚(中国語:サンユィー、台湾語:センヒー)と呼ばれるタウナギは、栄養が豊富で、補血、補腎の効果がある食材だそうです。日本ではあまり耳にしませんが、田んぼや池に住む魚で、中華料理ではよく利用される食材です。
鱔魚(タウナギ)は「黄鱔」とも呼ばれ、形がウナギに似ています。体形は細長い淡水魚で、台湾原生種の底棲魚の一つです。水田や水路など砂質や泥質の土の中に出没し、昼間は土の中の穴にいて、夜に捕食活動をします。小魚や小エビ、カエル、水生昆虫などを主食とし、鉄分やカルシウムを多く含みます。「本草綱目」という書物によると、補血、補気、消炎、消毒、風湿除去などの効能があるそうです。 日本には明治の終わり頃に入ってきた外来種で、体長は40cm~1mくらいになるそうです。現在では、中国大陸から台湾、東南アジアに生息しているそうです。小暑の後が最も脂がのっていて美味しく、「小暑の黄色いタウナギは高麗人参にも勝る」と言われているそうです。 調理には火加減と時間が重要で、鍋から上げる前にとろみと、甘酸っぱいタレをかけてタウナギを包み込みます。酸味、甘み、プリプリ感、香ばしさが混在した料理で、他では味わえない味です。 ブログランキングに参加しています!応援お願いします! → ![]() 大容量無制限レンタルサーバー【X2】利用者のみドメインが激安 あなたのサイトのURL、そろそろスリムにしませんか? |
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四川料理系列の一つで、四川料理の麻、辣、鮮、香、油などが特徴の料理です。日本でも挽肉と赤唐辛子、花椒(山椒の同属異種)、豆板醤(豆瓣醤)などを炒め、鶏ガラスープを入れて豆腐を煮た料理として有名です。
麻婆豆腐は、麻(花椒による舌が痺れるような辛さ)、辣(唐辛子による舌がヒリヒリするような辛さ)、鮮(うまみ、甘味)、燙(熱さ)、嫩(柔らかさ)、捆(豆腐が煮崩れしない)、酥香(カリッと香ばしいひき肉)などが重要だと言われています。 麻婆豆腐の発祥地は、四川省成都北門外にある万福橋のたもとだそうです。清の同治帝の治世、同治元年(1862年)に成都の北郊外の万福橋の傍らに、陳春富という人が「陳興盛飯舗」という食堂を開いていたそうです。店主の陳春富が亡くなった後は、奥さんがその店を引き継ぎ、経営していたそうです。 その奥さんは、顔にアバタのある劉と言う女性だったそうです。この劉さんは、皆に「陳さんのアバタ顔の奥さん(陳麻婆)」と呼ばれていたそうです。つまり、「麻婆」とは、「あばたのおかみさん」という意味だそうです。 当時、万福橋は油商人が油を運ぶために必ず通る場所であり、その人足たちは、いつもここで休憩し、食事をしていたそうです。当時、豆腐の値段が安かったことから、豆腐料理は人足たちがよく注文する料理の1つになっていたそうです。しかし、日が経つにつれ、様々な豆腐料理も一通り食べつくしてしまい、豆腐料理に飽きてきてしまったそうです。 そんな中、ある人足が、食用油を提供するので、今までにない豆腐料理を作ってもらえないかと頼んだそうです。そこで陳麻婆は、豆腐、トウガラシ、挽肉、豆板醤、花椒、豆鼓、ニンニクの芽を使って、色鮮やかな香りが良く、しかも辛く痺れる病みつきの味の豆腐料理を作ったそうです。 これを食べた人足達は、見た目も申し分なく、滑らかで口当たりも良く、味も痺れるような辛さがあり、熱くて旨みもあり、挽肉の食感も良く柔らかい料理に舌鼓を打ったそうです。この料理の評判が人足以外にも広がり、多くの人たちが陳興盛飯舗を訪れ、この料理を注文したそうです。 これが、麻婆豆腐の始まりだそうです。ちなみに現在でも、四川省成都に陳麻婆豆腐店は存在するそうです。当初は、羊肉と汲み出し豆腐である「豆花」が使われていたようです。また豆板醤も、当時の新しい調味料であったため使われておらず、数十年後から使われるようになったようです。 日本では、四川省宜賓出身の料理人である陳建民氏が、日本人の口に合うようにアレンジした麻婆豆腐を店舗および、テレビの料理番組で紹介し、広まったようです。最近では、本場風に花椒を効かせたものを「四川麻婆豆腐」または「陳麻婆豆腐」と称して、陳建民氏が日本人向けにアレンジした一般的な「麻婆豆腐」とは区別する傾向があるようです。 ブログランキングに参加しています!応援お願いします! → ![]() ロリポップ!ならWordpress・MovableTypeの簡単インストール付! あなたも月々105円~でブログデビューしちゃおう!! ドレスアップカー高額査定! |
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日本でも「八宝菜」の名で広く知られている料理ですが、他にも「五目旨煮」などとも呼ばれることがあるようです。もともとは広東料理で、中国語では「八宝菜」と書いて「babaocai」と発音するそうです。
豚肉、鶏肉、ハムなどの肉類、エビ、アワビ、ナマコ、イカなどの魚介類、シイタケやキクラゲなどのキノコ類、タケノコ、ニンジン、ピーマン、白菜、チンゲンサイなどの野菜類、ギンナンや茹でたウズラの卵など、たくさんの具材を油で炒めあわせ、塩味もしくは醤油味に調味した後、片栗粉でとろみをつけた料理です。 八宝菜の由来には、諸説があって、はっきりしていないようです。もっとも有名な説が、李鴻章という政治家に由来するという説のようです。 清の時代の政治家であった李鴻章(リホンチャン)は、美食家として名が知られていたようです。ある日、友人の家に招待された時、友人の妻が作った野菜と肉で作った五目うま煮を御馳走になったそうです。ところが、この料理が非常に美味しかったため、家に帰ってから料理人たちに指示して、さらに美味しくなるように研究させて生み出したのが「八宝菜」だという説です。 このほか、清代の第六代皇帝の乾隆帝に由来する説もあるようです。乾隆帝がお忍びで、場末の料理屋に入り、「何かっ作ってほしい」と注文した時、店主がありあわせの材料で作って出した料理が美味しかったそうです。そこで「なんという料理か?」と聞いたら、店主が「八宝菜です」と答えた、という説です。 さらに、昔の中国の宮廷の御后様に由来する説もあります。宮廷の料理人たちが宮廷の料理を作った後、余った食材で自分たちのまかない料理を作って食べていたところ、たまたま、そこに通りかかった御后様が、その賄い料理を食べたいと要求したそうです。仕方なく料理人たちが、御后様に差し上げたところ、非常に美味しく、御后様が気に入ったという説です。さらに、名前の由来として、御后様が「この美味しい料理の名前は何?」と聞いたところ、「余りものの材料で作った料理なので、名前はありません」と料理人が答えたそうです。すると御后様は「たくさんの宝物を集めて作ったように美味しいおかずであるので八宝菜と呼びなさい」と名付けたのだそうです。さらに、この説の御后様が、西太后に変わっただけの「西太后由来説」もあるようです。 乾隆帝と西太后は、これ以外にも、様々な料理の名付け親説がありますので、信ぴょう性に欠けるような気がします。この2人が、権力があり、美食家で様々な美味しい料理を食べてきたことは間違いないと思いますが、中国では、由来に困った料理は、全てこの2人のせいにしてしまっているような感じです。ですから、あえて言うならば、李鴻章説を信じたいところですが、名前との関係が聞こえてこないのが残念です。実際には八宝菜に似たような別の料理だったのかもしれません。 この八宝菜の名前で使われている「八」という数字は「八種類の材料」という意味ではありません。中国では「八」という漢字に「たくさん」という意味があるようです。「菜」は「おかず」の意味ですが、「宝」は何でしょうか。どうも理由がはっきりしませんが、ネットでは、上述したような「たくさんの(八)宝物を集めたような」料理だからとか、「宝のように美味しい」とかの説明が多いです。 しかしながら、これも疑問に思います。それ以外の料理は「宝のように美味しい」のではないのか、また、他にも「たくさんの宝を使った料理」があると思います。しかも、私は八宝菜は大好きな料理の1つですが、そんなに飛び上がってびっくりするような「宝のように美味しい八宝菜」を食べたことはありません。もしかしたら、李鴻章は、現在の八宝菜とは別の「宝のように美味しい八宝菜」を完成させていたのかもしれません。しかし、そんな宝を使うことができるお金持ちも少ないため、その料理は伝承されず、それを真似したような料理が現在の八宝菜として伝わっているのかもしれません。 ちなみに中国では、八宝菜は「鶏肉や豚肉などの肉が入っている八宝菜」と「野菜のみの八宝菜」の2種類があるそうです。野菜のみの八宝菜は、「素八宝菜」と言うそうです。 ◎八宝菜(中国) 日本でも「八宝菜」の名で広く知られている料理ですが、他にも「五目旨煮」などとも呼ばれることがあるようです。もともとは広東料理で、中国語では「八宝菜」と書いて「babaocai」と発音するそうです。 豚肉、鶏肉、ハムなどの肉類、エビ、アワビ、ナマコ、イカなどの魚介類、シイタケやキクラゲなどのキノコ類、タケノコ、ニンジン、ピーマン、白菜、チンゲンサイなどの野菜類、ギンナンや茹でたウズラの卵など、たくさんの具材を油で炒めあわせ、塩味もしくは醤油味に調味した後、片栗粉でとろみをつけた料理です。 八宝菜の由来には、諸説があって、はっきりしていないようです。もっとも有名な説が、李鴻章という政治家に由来するという説のようです。 清の時代の政治家であった李鴻章(リホンチャン)は、美食家として名が知られていたようです。ある日、友人の家に招待された時、友人の妻が作った野菜と肉で作った五目うま煮を御馳走になったそうです。ところが、この料理が非常に美味しかったため、家に帰ってから料理人たちに指示して、さらに美味しくなるように研究させて生み出したのが「八宝菜」だという説です。 このほか、清代の第六代皇帝の乾隆帝に由来する説もあるようです。乾隆帝がお忍びで、場末の料理屋に入り、「何かっ作ってほしい」と注文した時、店主がありあわせの材料で作って出した料理が美味しかったそうです。そこで「なんという料理か?」と聞いたら、店主が「八宝菜です」と答えた、という説です。 さらに、昔の中国の宮廷の御后様に由来する説もあります。宮廷の料理人たちが宮廷の料理を作った後、余った食材で自分たちのまかない料理を作って食べていたところ、たまたま、そこに通りかかった御后様が、その賄い料理を食べたいと要求したそうです。仕方なく料理人たちが、御后様に差し上げたところ、非常に美味しく、御后様が気に入ったという説です。さらに、名前の由来として、御后様が「この美味しい料理の名前は何?」と聞いたところ、「余りものの材料で作った料理なので、名前はありません」と料理人が答えたそうです。すると御后様は「たくさんの宝物を集めて作ったように美味しいおかずであるので八宝菜と呼びなさい」と名付けたのだそうです。さらに、この説の御后様が、西太后に変わっただけの「西太后由来説」もあるようです。 乾隆帝と西太后は、これ以外にも、様々な料理の名付け親説がありますので、信ぴょう性に欠けるような気がします。この2人が、権力があり、美食家で様々な美味しい料理を食べてきたことは間違いないと思いますが、中国では、由来に困った料理は、全てこの2人のせいにしてしまっているような感じです。ですから、あえて言うならば、李鴻章説を信じたいところですが、名前との関係が聞こえてこないのが残念です。実際には八宝菜に似たような別の料理だったのかもしれません。 この八宝菜の名前で使われている「八」という数字は「八種類の材料」という意味ではありません。中国では「八」という漢字に「たくさん」という意味があるようです。「菜」は「おかず」の意味ですが、「宝」は何でしょうか。どうも理由がはっきりしませんが、ネットでは、上述したような「たくさんの(八)宝物を集めたような」料理だからとか、「宝のように美味しい」とかの説明が多いです。 しかしながら、これも疑問に思います。それ以外の料理は「宝のように美味しい」のではないのか、また、他にも「たくさんの宝を使った料理」があると思います。しかも、私は八宝菜は大好きな料理の1つですが、そんなに飛び上がってびっくりするような「宝のように美味しい八宝菜」を食べたことはありません。もしかしたら、李鴻章は、現在の八宝菜とは別の「宝のように美味しい八宝菜」を完成させていたのかもしれません。しかし、そんな宝を使うことができるお金持ちも少ないため、その料理は伝承されず、それを真似したような料理が現在の八宝菜として伝わっているのかもしれません。 ちなみに中国では、八宝菜は「鶏肉や豚肉などの肉が入っている八宝菜」と「野菜のみの八宝菜」の2種類があるそうです。野菜のみの八宝菜は、「素八宝菜」と言うそうです。 ブログランキングに参加しています!応援お願いします! → ![]() 納得するまで数値で説明!不動産相談はハイアークラブ お出かけが楽しくなるベビーカー“AirBuggy(エアバギー)” |
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アワビ、フカヒレ、干し貝柱など、乾物を主体とする様々な高級食材を贅沢に使用し、数日かけて調理した中国伝統の高級スープです。料理名の「佛(フォー)」は「僧侶」、「跳(ティャオ)」は「跳ぶ」、「牆(チァン)」は「壁」という意味で、そのままでは「僧侶が壁を飛び越える」という意味です。
佛跳牆は、陶器の壺の中に十数種類から数十種類の乾物を主体とする高級食材と水を入れ、数時間から数日掛けて煮込み、あるいは蒸し煮をして作られます。店によっても、また、予算によっても使われる食材や調理法が異なってくるため、必ずしも一定のレシピがある料理ではないようです。 発祥地とされる中国福建省福州では、材料を入れた後、食材の香りを逃がさないように、壺に蓮の葉や薄紙で蓋をし、さらに陶器の蓋をして煮込みます。食卓に載せる直前に香り付けで入れる仕上げの酒は、蓮の葉などの蓋に小さな穴を開けて、そこから流し込み、少し蒸らせます。その後、食卓で蓋を取って食べます。 「仏跳牆」という名前が最も古く登場するのは、宋の時代(960年~1279年)の文献だそうですが、この料理名の由来には様々な説があるそうです。その1つは、この料理は様々な食材の旨みが凝縮しており、その香りは複雑でとても美味しそうなことから、精進料理しか食べられない僧侶であっても、壁を飛び越えてやってきて盗み食いするほどだ、というものです。 また、お坊さんが戒律を守らないで、肉や様々な乾物などの食材を壷の中に入れ、とろ火で煮込んで、こっそり食べていたところ、人に知られるところとなり、そのお坊さんは怖れて壁を乗り越えて逃げ出したことから、その時の料理に、この名が付いたとする説があるようです。 そのほかにも、清の時代(1644年~1911年)に福州のある役人の家で、その上司の周蓮をもてなした時に作った御馳走だという説もあります。それは、鶏肉、アヒル肉、豚肉など、20数種の材料に、紹興酒を加えて壺で煮込んだ肉料理だったようですが、周蓮はこれを食べて非常に賞賛したそうです。そこで、この料理名を尋ねたところ、主人はこの料理は「良いことが思い通りに進み、幸福と長寿が共に揃う」と言う意味で「福寿全」という料理名だと答えたそうです。周蓮の料理人である鄭春発は、この料理を研究し、海産物の干物を加えるという改良を加えたそうです。その後、周蓮の家に来た客に鄭春発が改良した「福寿全」を出したところ、あまりの美味しさに感動し、同席していた文人が「壜啓葷香飄四鄰、佛聞棄禅跳墻來(壺を開けると肉の香りがあたりに漂い、仏も香りを嗅げば禅の道を棄て壁を飛び越えてやって来る)」と詩を詠んだそうです。そこで、この料理名に「仏跳墻」と名付けた、という説もあるようです。 その後、鄭春発は独立し、1877年に福州市内に「聚春園菜館」という店を開いたそうです。この店で佛跳牆を出したところ、非常に繁盛したようです。そのため、この店に来た客が、まだ正式な料理名がなかった「佛跳牆」を食べ、あまりの美味しさに上述したような詩を読んで、それから「佛跳牆」と名付けられたという説もあるようです。聚春園菜館は、現在でも福建省福州にあります。 「仏跳牆」という名前自体は宋の時代の文献にも載っていることから、鄭春発が改良した料理に初めて「仏跳牆」という名前が付けられた、という説明には無理があるように思います。ただ、もともと「仏跳牆」と呼ばれるような料理があったとしても、改良を加え、現在の「仏跳牆」(海産物の干物を加えるということがポイントのようですが)を作ったのは鄭春発ということで間違いないようです。 佛跳牆は、福建省福州のほか、台湾や香港でも食べられます。台湾では、結婚式のお祝い料理として欠かせないそうです。福州では、元祖とされる聚春園菜館を始め、多くの高級レストランやホテルで、予約すれば食べる事ができるようです。 台湾では直火で調理する福建式佛跳牆が作られていますが、香港では、広東スープの伝統手法のひとつである壺ごと蒸篭で蒸して熱を加える広東佛跳牆が一般的なようです。 ブログランキングに参加しています!応援お願いします! → ![]() 精密審美歯科センター BTイオンbox“超うるうる肌”セット |
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