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コメント[ 0 ]TB[ ] 2008年07月21日22:31
 2007年8月頃からは、成田空港と仁川空港を結ぶJALの機内食が、それまで以上に酷いものになっていました。エコノミークラスは、機内食がサンドイッチと菓子パンになり、とても悲しい食事になっていました。これは、2006年の秋頃に、エコノミークラスのおつまみの中身が変わって、それまでよりも美味しくないものになったのに続いての改革(改悪?)のようでした。
しかし、2008年7月から、良い方向に変わったようです。羽田空港と金浦空港の往復を利用しましたが、往復ともに、食事が良くなっていました。
エコノミークラスですから、ものすごい料理に変わったわけではありませんが、いわゆる「空弁」になっていました。そういえば、空弁というものを聞いたのは、大分、昔からですが、実際に見たのも食べたのも初めてでした。
見た目も鮮やかで、美味しそう。実際に、食べてみると、今までの食事がひどかったですから、比べ物にならないくらい美味しく感じました。これなら、エコノミークラスでも十分、満足ですね。今回は羽田からの往復でしたが、成田空港からだとどうなのでしょうか。次回、試してみましょう。



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CATEGORY[日本]
コメント[ 0 ]TB[ ] 2008年07月08日12:57
東京の上野に行くことがあったので、「みはし」というお店であんみつをいただきました。休日だったこともあり、この店だけ、行列ができていました。お店を見て、左側にお持ち帰りの列、右側に店内での飲食の列ができていて、通る人たちが、「何、この行列?あ、これ、知ってる!」なんて言っていました。かなり有名なんでしょうね。
「餡蜜」とは、「餡をかけた蜜豆」のこと、そして「蜜豆」とは、「ゆでた赤豌豆、寒天、求肥、白玉、果物などを盛りつけ、糖蜜をかけた食べ物」なんですね。蜜豆についてネットで調べると、あまり情報が出てこないですね。
「ミツマメの原形は、江戸時代末期に売られていた『糝粉細工(「しんこざいく」米の粉の餅)』の船に赤エンドウマメを入れて蜜をかけた子供向けの菓子であった。現在のような形態のみつまめは、1903年に浅草の「舟和」が売り出したものが最初と言われる。これは、銀の容器に赤エンドウマメ、賽の目に刻んだ寒天、あんず、切り餅などを入れ蜜をかけたものであった。舟和はみつまめを当時流行していた「ビヤホール」「ミルクホール」にあやかった「みつ豆ホール」と名付けた西洋風喫茶で売り出し、大人向けの甘味として大ヒット商品となった。1930年には、銀座のお汁粉屋「若松」が、みつまめに餡をのせたあんみつを発売した。」というのが見つかりました。
「みはし」は、甘味処の老舗らしく、創業は昭和23年だそうです。あっさりした甘さで、くどくなく、美味しい餡蜜でした。お店のHPによると、上野広小路は、江戸時代に開かれた東叡山寛永寺の領地だったそうです。そのお寺への参道を不忍池からの川が横切っていて、その川に3つの橋が架かっていたことから、三橋(みはし)としたのだそうです。ちなみに、旧町名でもあったようです。日本の夏には、日本のお菓子が合いますね。

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コメント[ 0 ]TB[ ] 2008年05月08日13:37
噂の鉄道博物館に行ってきました。中に入って、入口正面、少し左側にあるレストランに行きました。ここは、かつての食堂車の代名詞「旅のレストラン 日本食堂」というところです。
ここの目玉は、幻の(?)賄い食「ハチクマライス」(650円)だそうです。これは、当時の乗務員が食べていた賄い食だそうです。食堂車で乗務員しか食べることができなかったので、幻なのでしょう。
「ハチクマライス」とは、かつて国鉄の寝台特急の乗務員向けに特別に食堂車で提供されたメニューで、目玉焼きを乗せたご飯、味噌汁、漬物というのが定番スタイルだそうです。当時、乗務員はご飯と味噌汁は無料であったため、できるだけ安く満腹になるためのアイデアであったそうです。(坂本衛著、「車掌マル裏乗務手帳」)その語源は、落語でおなじみの「八つぁん」、「熊さん」から来ているそうです。誰でも安く食べられる、という意味合いだそうです。
2008年5月は、ハチクマライスの第二段とのことで、ハンバークが載ったカレー丼の上に、温泉卵が二つ入ったものでした。第一弾は、カレーではなく、ハヤシだったようです。味はと言えば、まあ、普通ですね。カレーも辛口好きな人には物足りないもので、昔のカレーといった感じで、誰でも食べられるものでした。あえて言えば、650円で良かった、という感じでしょうか。
これ以外のハンバーグライス(850円)もカレーライスもまあまあの味でしたが、値段が高くない上、ご飯の量が多くて、なかなか良いのではないでしょうか。ご飯は、ファミリーレストランで出てくるお皿に盛られ他ご飯の大盛りよりも少し多い感じでした。
ただし、中華風あんかけ飯(600円)は、あまり美味しくありませんでした。味がのっぺりしていて、そのくせご飯が多いので、食べきるのに苦労します。まあ、観光施設としては、値段が高すぎないので、良いのではないでしょうか。できれば、もっと美味しいものがいいですね。最近は、みんな舌が肥えていますので。

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コメント[ 0 ]TB[ ] 2008年01月16日12:57

 年越し蕎麦とは、大晦日に食べる蕎麦のことです。日本全国で見られる風習のようです。年越し蕎麦の由来とされる説は「細く長く達者に暮らせることを願って」というものが最も一般的なようです。また、年を越す前に食べきらなければならず、「蕎麦を残すと翌年、金運に恵まれない」などと言われているそうです。
しかし、何故、大晦日に「細く長く達者に暮らせることを願って」蕎麦を食べるのでしょうか。何となく理屈に合わないような気がします。こんな疑問をもっていたところ、二村一夫氏のコラムを見つけました。二村氏によると、昔は、大晦日の夜は、一年でもっとも重要な食事「お年取り料理」という御馳走を食べていたはずだというのです。以下、二村氏の話を引用します。

 もともと「年越し蕎麦」は江戸の町人の間に生まれた、比較的新しい慣行であり、その由来とされる、「長い蕎麦切りに長寿を願った」とか、「切れやすい蕎麦に悪運を断ち切る願いをこめた」、などは、縁起担ぎに後からつけた理屈であろう。
それ以前からあった「お年取り料理」の風習とは、「数え年」に関連している。数え年で年齢を計算していたため、正月には全員が年を一つ重ねる。そこで、これを家族全員で祝うのが「お年取り」であり、そのための御馳走が「お年取り料理」なのである。つまり、家族全員の誕生日パーティといった意味合いの日である。
では何故、それが一月一日でなくて大晦日なのか。それは、かつて夜の灯りが暗く、人びとは太陽とともに働いていた頃、一日は日没とともに終わると考えられていたからなのだ。日没で日が暮れたら、一日が終わり、つまり夜の間からが、新たな日の始まりだったのである。
その一方、江戸の町人にとっては、大晦日は、おそらく一年中でいちばん忙しい日であったはずである。と言うのも、当時は、物の売り買いは現金ではなく、盆と暮に決済する「掛け売り」が普通だった。年二回でなく、「掛け取り」は暮だけという業種もあったらしい。つまり大晦日(おおみそか)は、半年あるいは一年間に売った商品の代金を集めなければならない大事な日で、町人は超多忙だった。つまり、そんな日に、ゆっくり「お年取り料理」を作って、食べて、祝っている余裕はなく、出前がきく蕎麦で簡単に済ませたのではないだろうか。それが広まって、「年越し蕎麦」となり、さらに「細く長く」などの理由を後から付けたのではないか。

 なるほど、納得できる話である。「年越し蕎麦」を理解するには、「お年取り料理」が必要で、それらと、それ以前にはなかった江戸時代の町人文化が重なった結果、新しい「年越し蕎麦」なる文化ができたものと考えられる。これであれば、「蕎麦」のような簡単、かつ出前が利く料理を大晦日に食べた、という風習も理解できる。また、「蕎麦を残すと・・・」なるものは、「蕎麦を食べられない=取立てがうまくいっていないで、駆けずり回っている状態」であるし、「蕎麦を食べきれない=年末ギリギリまで取り立てに苦労した」ということで、その年の苦労を物語っているため、「翌年は、同じことがないように」、という意味を込めて噂しあったものが広まったのかもしれませんね。

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