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柳川鍋(やながわなべ)は、ドジョウを使った江戸生まれの鍋料理です。ドジョウを開いて骨を取り、笹掻きにしたゴボウをミリンと醤油の割下で煮て卵でとじた料理です。一般的なドジョウ鍋とは、ゴボウや卵の有無で区別されます。
その名の由来は江戸時代に遡ります。喜田川守貞が江戸時代の風俗、事物をまとめた守貞謾稿(もりさだまんこう)という書物によると、天保のはじめごろ日本橋横山町で骨抜き泥鰌を売っていた人物が屋号を「柳川」としていたことが名前の由来とされているようです。その「柳川屋」と言う料理屋が始めた料理であることから、「柳川」と呼ばれるようになったようです。 柳川鍋をご飯に載せて丼物に仕立てた「柳川丼」という料理もあります。これは「舞子丼」という別称もあります。これはドジョウの別名であるオドリコ(ドジョウが身をくねらせる様子が、踊り子のようであるため)から、「踊り子=舞子」ということで舞子丼と呼ばれているようです。 最近では、このドジョウの柳川鍋をもとに、ドジョウの代わりに肉を使って、柳川鍋と同じように笹掻きゴボウと共に甘辛く煮て卵で閉じた料理を「○○の柳川」、あるいは「柳川風」と呼ぶこともあります。 ブログランキングに参加しています!応援お願いします! → ![]() 資格で人生のネクストステージへ! 有力資格試験の合格指導専門校 東京法経学院 【自宅が塾になる!】ネット学習塾「ショウイン」 PR |
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「ところてん」とは、海草である「テングサ」を煮て溶かし、型に流して、冷やして固めた食品です。一般的には、ところてん突きで突いて、細く麺状に押し出したものに、醤油や酢をかけ、辛子などを添えて食べます。
ところてんの歴史は古く、テングサを煮溶かす製法は、遣唐使が持ち帰ったとされています。当時は、テングサを「凝海藻(こるもは)」と呼んでおり、「ところてん」は俗に「こころふと」と呼ばれ、漢字で「心太」が当てられていたようです。この「こころふと」の「こころ」は「凝る」が転じたもので、「ふと」は「太い海藻」を意味していると考えられていますが、正確な由来は分かっていないようです。 室町時代になって、「心太」は湯桶読みで「こころてい」と呼ばれるようになり、更に「こころてん」となり、江戸時代の書物では「ところてん」と記されているそうです。 ところてんは、地域によって様々な食べ方があるそうです。一般的には、酢のタレをかけて食べるのですが、他にも黒蜜のタレをかける場合や、酢みそ、だし汁、二杯酢、さらにはサラダやきゅうりの千切り(酢の物)と合わせたり、最近ではキムチと合わせたり、冷やし中華に入れたり、あるいは冷麺風に食べるなど、様々な食べ方があるようです。 ところてんを乾燥させたものや、天草を煮立て寒ざらしにするなどして乾燥させたものが「寒天」です。どちらも同じ天草からできていますが、乾燥しているものが寒天です。寒天に水分を吸収させるとところてんのようになります。 ブログランキングに参加しています!応援お願いします! → ![]() おかき・おせんべい・あられをお取り寄せ 【日光おかき工房】お試しセット(送料無料) 1GBあたり52円の高機能サーバー「ServerQueen」 |
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鰻重(うなじゅう)とは、一般に「鰻重箱(うなぎじゅうばこ)」の略称で、重箱(木製の四角い箱に漆塗り等の塗りをかけた蓋の付いた食器)の中に御飯を入れ、鰻の蒲焼を載せ、上から蒲焼のタレをかけた料理です。
うな丼とは、名称、容器が違いますが、基本的に同じ料理です。例えば、通常メニューが「うな重」で、ランチに少し値段を下げた「うな丼」を出す店もあるようですが、実際にはウナギの質も量も同じだったりするそうです。また、うな重にはお新香と肝吸いがつくのに対し、ランチのうな丼にはお新香はなく、肝の入ってない普通のお吸い物になるなど、ウナギ以外の所で差をつけ、値段に差をつけていたりするようです。 もともと鰻は庶民の食べ物で、丼で食べていたのが、きれいな漆器のお重に入れて、高級感を出すようになったといわれてます。しかし、必ずしも「丼」が安い店で、「重」が高級な店というわけではなく、例えば何千円もする「うな丼」しかやっていないお店もあります。また、そういう店では、「うな丼」が有田焼の立派な丼で出てきたりもするようです。 また、「容器の大きさの違いで、うなぎの大きさがちょっと違うため、「丼」と「重」で値段が異なっていると説明する店もあるようです。 ブログランキングに参加しています!応援お願いします! → ![]() psp/ps3/wii/DSが驚きの900円台で!!!! 家族に内緒で借金解決!スグ相談 |
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トルコライスとは、一般に「トルコライス」または、「トルコ風ライス」と呼ばれていて、洋食屋さんで出される料理です。長崎、大阪、神戸などの洋食屋さんで一般的な料理のようですが、私は学生時代に横浜の洋食屋さんで食べたのが最初の体験でした。非常にボリュームがあって、お腹も大満足な料理でした。
現在では色々なパターンがあるようですが、基本は、「ご飯物」、「スパゲティ」、「肉類」の3種類の料理が1枚の皿の上に載せられた料理です。カレー味のピラフ、ナポリタンスパゲティ、ドミグラスソースのかかった豚カツという組合せが最も一般的なようです。 店によっては、御飯物はピラフ、チャーハン、バターライス、ドライカレーなどに変化し、スパゲッティはナポリタンが最も主流のようですが、ミートソース、トマトソースなどもあるようです。肉類は、豚カツが最も主流のようですが、ヒレカツだったり、チキンカツやハンバーグになったりするようです。 このトルコライスは、定まった形式がないために面白い料理と思われているようですが、さらに名前の由来も発祥も謎となっている料理なのだそうです。現在では、長崎では1950年代にあったらしいこと、現在でも多くの店でトルコライスを出すことから、トルコライスの発祥は長崎とする説が強いようですが、他にも大阪発祥説、神戸発祥説などもあるようです。 名称の「トルコライス」の方は、さらに謎となっていて、様々な説があるそうです。少なくとも、イスラム教徒が多いトルコの料理に豚カツは無いことから、トルコの料理が起源でないことは間違いないと考えられます。 このような謎が深まる中、トルコライスの考案者は、長崎のレストラン、ビストロボルドーの現在の御主人のお父上、上原一郎氏であるという説が、一部、有力なようです。ビストロボルドーの説明によると、上原氏が昭和30年頃、神戸のシルバーダラと言う将校クラブで働いていた頃、冷ご飯を焼き飯にして出す際、トルコのサフランピラウに似せて考案した料理なのだそうです。もともとは、ワインにサフランを入れて色付けしていましたが、サフラン臭いと言われたため、ターメリックで色付けするように変更したそうです。しかし、今度は粉っぽいと言われたため、カレー粉で色付けしたところ、美味しいと評判になったそうです。また、おかずが欲しいとの要求に応じ、スパゲティーと豚カツを添えて出したのだそうです。上原氏いわく、「サフランピラフ」に似せた料理だから「トルコ風ライス」なのだそうです。この時のメインは焼き飯で、おかずは添え物程度だったそうです。 その後、上原氏は長崎に来て、レストラン丸善のチーフ、松原氏と友達になったそうです。松原氏が入院中にはヘルプチーフとしてレストラン丸善に勤務し、その際、経営者から「何か面白い料理は無いか?」と聞かれて、この「トルコ風ライス」を教えたのだそうです。その後、松原氏が退院し、松原氏のアレンジが加わった「トルコ風ライス」が丸善のメニューに載ったそうです。その時は、ドライカレーとスパゲティーが半々になり、さらにトンカツが1枚載せられ、カクテルソースとデミグラスソースか掛けられた料理になり、現在のトルコライスの形に近くなっていたようです。 ビストロボルドーの説明によると、名称の由来として語られている「ピラフ(焼きめし)が中国を、スパゲッティがヨーロッパを意味していて、そこに豚カツが加わって架け橋になるという解釈から、中国とヨーロッパの中間に位置するトルコの名称を冠した」という説や、「フランス語で国旗の三色旗を意味する“トリコロール”が変化し「トルコ」と略された」という説は、いずれも20数年前に、長崎の地域情報誌が作った「仮説」で、後付けの創作である、とのことです。 まあ、少なくとも、イスラム教徒が多いトルコをトンカツで意味するのは無理がありすぎます。せめてキョフテとかケバブだったら分かりますが、基本がトンカツでは、絶対にトルコではないでしょう。どう考えても、後から考えたこじつけとしか思えません。 また、「トリコロール」がなまって「トルコ」となったとする説も、後から作ったこじつけにしか聞こえません。3色の料理が横に並べられているのなら三色旗でも良いですが、色合いがそれほど変わらない3種類の料理の盛合せを三色旗だとするには無理があると思います。 ビストロボルドーの説明は、非常に理解しやすいと思います。ただし、上原氏が考案したのは、現在の「トルコ風ライス」の原型なのだと思います。私の考えでは、長崎に来た上原氏の考案をもとに、松原氏が現在の「トルコ風ライス」を生みだしたのだと思います。松原氏の料理の人気が出れば、その噂を聞いた周りの料理屋さんも真似をして、似たような料理を作っていくことでしょう。そんなことから、長崎では、色々なお店で「我こそは元祖!」とするトルコライスが生まれていったのではないでしょうか。 また、その一方、上原氏が神戸で働いていた時に、一緒に働いていた人や、その料理を見たことがある人は、上原氏が長崎に行った後、自分流のアレンジを加えた「トルコ風ライス」を作っていたのではないでしょうか。そのため長崎以外では、神戸と大阪が有名なのではないでしょうか。(大阪には、神戸から流れていったものと推測します。) そして、この長崎、神戸、大阪で、いずれも、同じような料理が「トルコ風ライス」、「トルコライス」と呼ばれていることは、上原氏が神戸で働いていた時に「トルコ風ライス」だと説明したからではないでしょうか。全然、別の場所で似たような料理があっても、名称までもが同じになるとは思えません。神戸と長崎で同じトルコ風ライスが発生したという点をつなぐ人が上原氏であるとすると、理解しやすいのではないでしょうか。 このように考えると、上原氏が考案したもともとの「トルコ風ライス」はすでになく、様々な料理人が独自の工夫を加えてアレンジした「トルコ風ライス」が、長崎、神戸、大阪を中心とした様々な場所で生まれ、現在の「トルコライス」になっているものと思います。結論としては、トルコライスとは「ご飯物、スパゲティ、肉類の3種類の料理が1枚の皿の上に載せられた料理」であり、その美味しさ、ボリュームの点で人気の高い料理であるということでしょうか。 ブログランキングに参加しています!応援お願いします! → ![]() 大容量無制限レンタルサーバー【X2】利用者のみドメインが激安 IZmiriaのブログ「IZmiriaのアトリエから」 |
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寿司は、世界中で有名な日本料理です。「寿司」、「すし」、「鮨」、「寿し」など、いろいろな表記がありますが、主に魚介類と酢飯を組み合わせた日本料理です。寿司には、酢飯の上に具材を載せて握った握り寿司の他に、ちらし寿司、押し寿司や巻き寿司など、色々な種類があります。
「すし」の語源は、江戸時代中期に貝原益軒が記した「日本釈名」(元禄12年(1699)成立、翌年刊行)や、新井白石が記した『東雅』(享保2年(1717)成立)に記載されている、「その味が酸っぱいから「酸し(すし)」である」とした説が有力とされています。 「すし」に関する記録は古くからあり、奈良時代の文献に載っているそうです。この頃のすしには、「鮓」という字が当てられ、魚貝類を塩漬けにして発酵させた料理を指していたようです。発酵させる事によって自然に酸味が生じて味が良くなり、保存も効くようになります。魚の漬物のようなもので、保存食として食べられていたようです。 この古代のすしは、熟成させるのに2~3ヶ月もかかっていたようです。その後、平安時代の頃、米を加えて熟成を早める方法が考えられ、甘酢で味付けした米飯に開いた生魚を載せて一晩寝かせたすしが作られるようになったようです。米飯を一緒に漬ける事で、米飯に含まれるデンプンなどの働きによって発酵が早くなり、味も良くなるという効果がありました。この頃は、米飯は発酵のためだけに用いられていて、食べるのは魚貝類の部分だけだったようです。 このような寿司は、現在でも近江地方に伝わる鮒ずし(ふなずし)、ハタハタの漬け込みずし、サバのイズシなどに受け継がれています。このように、魚介類に米を加えて乳酸発酵させた寿司は、「なれ鮨(なれずし)」と呼ばれています。 一方、にぎり寿司が生まれたのは、江戸時代末期(19世紀初め)頃の江戸のようです。握りずしの考案者は、両国の「與兵衛鮓(よへいずし)」の華屋與兵衛とも、安宅の「砂子鮨(いさごずし)」の堺屋松五郎とも言われており、明確な資料はないようです。しかし、文政12年(1829年)に発表された「柳多留」に「妖術という身で握るすしの飯」(1827年作句)という俳句が載っていることから、1827年には一般的に知られていたと考えられます。 與兵衛のひ孫、小泉清三郎「家庭鮓のつけかた」に、與兵衛の孫、文久子「またぬ青葉」の引用があり、その要約は「以前にも握りずしを試みた者はいたが、握った後に笹で仕切って箱に詰め数時間押しをかけるすしで、翁(初代與兵衛)は押しをかけることを嫌い、握ることのみで製する「握早漬」を創った」とのことだそうです。與兵衛が「握早漬(握りずし)」を売り出した年は、諸説ありますが、文政7年(1824年)頃だとされています。 一方の堺屋松五郎の方は、喜多村信節が文政13年(1830年)にまとめた随筆、「嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)」に「文化(1804~1817年)の初め頃、深川六軒ぼりに、松がすしが出来て、世上すしの風一変し」との記載があるそうです。この記述から、それまでの上方風のすし(なれずし)が中心だった寿司が、握りずしに「一変した」と読み取ることを根拠とするようです。 この「松が鮓(まつがすし)」は、松浦静山の随筆、「甲子夜話(かっしやわ)」(文政4年(1821年)~天保12年(1841年)まで)にも記載があるそうです。「近頃、大川の東、安宅に、松鮓と呼ぶ新製あり。松とは販(う)る人の名なり。此佳味、一時、最賞用す。この鮓の価、殊に貴く、その量、五寸の器、二重に盛て、橢金3円(小判3両)に換ふとぞ。これを制するもの、鮓、成て、これを試食し、その味、意に適はざれば、輙(すなわち)、棄てて顧みずと云。この如く貴価の品、今に行はるるも、亦、世風を観るべし」との記述で、「松が鮓(まつがすし)」が非常に高価な寿司であったとの記述です。このため先ほどの文献も、「早ずし(握りずし)に一変した」とは記述されていないことから、「普通に食べらていたすしが、高級料理として一変した」と読むこともできるようで、松五郎が握りずしを考案したかどうかは分からないようです。 この「松が鮓(まつがすし)」は、「松鮨」とも、「松之鮨(まつのずし)」とも言われたようですが、これは「安宅の松」と、主人の名、堺屋松五郎にちなんだ通称であって、本来の屋号は「砂子鮨(いさごずし)」なのだそうです。ただ、後に屋号の方も「松之鮨」と改めたとのことです。 このほかにも、江戸時代中期の延宝年間(1673~1680年)に江戸の四ツ谷に住んでいた幕府の御典医である松本善甫が握りずしの考案者だとする説などがありますが、いずれにしても、握りずしは文政年間(1818~1831年)には完成されていたようです。 この「握りずし」は、「なれずし」とは異なり、すぐに食べられる事から「はやずし」とも呼ばれ、江戸中で流行したようです。当時は、屋台料理として庶民に広まって行ったようです。また、このにぎり寿司は、東京湾(江戸の前)でとれる魚介、海苔を使うことから「江戸前寿司」と呼ばれるようになったようです。 この握りずしは江戸だけでなく全国に広がっていき、天保(1831~1845年)には、名古屋にも江戸風のすし店が開店したそうです。また、箱寿司が主体であった大坂でも、1892年(明治25年)には、ほとんどの店が握り寿司に変わったとの記録が残されているそうです。 ブログランキングに参加しています!応援お願いします! → ![]() アロエの化粧水で潤いのある若々しい素肌に 今すぐ30分間無料体験!ライブチャットマックスライブ |
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