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チャーハンは、炊きあがった白飯を様々な具と一緒に油で炒めた料理です。中国の代表的な料理の1つであると同時に、日本でも日常的に食べられている料理の1つと言えるでしょう。
炒飯と言えば中国料理の代表とも思えますが、その起源は中央アジア、今の新彊ウイグルあたりのようです。さらに、元々の起源は、古代インド料理「プラーカ」であるという説が広く流布されているようです。
インドの「プラーカ」という料理は、鶏や豚を煮た煮汁で御飯を炊き、その煮込んだ肉と一緒に炒めた料理だそうです。このプラーカが、その後、インドにおいてビリヤ二とプラーオという料理と発展して現在に至っているのだそうです。
また、インド国内にとどまらず、北のカシュガル(西中国)に伝わって「ポール」という料理になり、このカシュガルからシルクロードを介して東西へ広がっていったというのです。東の中国に伝わっていった料理が炒飯で、さらに韓国、日本に伝わっていったとするのです。一方、西に向かって伝わっていった結果、ウズベキスタンで「プロフ」という料理に、トルコでは「プラウ」という料理になり、さらに「プラウ」がヨーロッパやフランスに伝わって「ピラフ」になったとするのです。さらに、ピラフがスペインに伝わって「パエリア」となり、イタリアでは「リゾット」として発展したというのです。さらにパエリアは、アメリカに渡り、ジャンバラヤになったそうです。
これとは別に、インドから海を渡って東南アジアに広がり、発展した料理がインドネシア、シンガポールやマレーシアなどで食べられているナシゴレンだというのです。古代インド料理「プラーカ」が世界中に広がっていったとする壮大な説ですが、これらの事実を裏付ける明確な証拠はなさそうです。少なくとも炒飯とピラフでは、作り方が全く異なると思うのですが、これらを同じ起源の料理とするのは無理があるのではないでしょうか。
中央アジアの遊牧民族が御飯を食べていたとすると、一度、煮炊きした米を残しておいて、次回、簡単に炒めて食べていたと考えた方が、はるかに分かりやすい気がします。私としては、ピラフと炒飯は全く別の料理だとしか思えません。
少なくとも、炒飯が中国で発展したことは間違いなく、中国料理と考えても問題はないものと思います。古くは、6世紀末から7世紀初め、隋の時代の「食経」という書物に「越国食砕金飯(越国、砕金飯を食す)」という記述があるそうです。これは、隋朝の軍師であった宰相の楊素が「碎金飯(スイ・ジン・ファン)」と言う御飯と卵を炒めた料理(玉子炒飯)が好きだったということで、この情報を記録したものだそうです。「砕金飯」の「砕」は「細かいもの」を表しており、「米」を意味しており、「金」は「卵で黄色く色づけられたこと」を形容しており、「砕金飯」とは「卵炒飯」のことです。
炒飯は、中国全土で広く食べられている料理で、具としても色々なものが使われていることから、「炒飯」としての特徴を説明することが難しいように思います。一般的には、御飯がパラパラでベチャっとしていないことが良いと言われているようです。
日本では、あまり知られていないかもしれませんが、中国料理としては、上述した碎金飯(卵チャーハン)、揚州炒飯や福建炒飯が有名です。 ブログランキングに参加しています!応援お願いします! → ![]() Salley Special Web Site 年間553円(税抜)からの格安ドメイン取得サービス─ムームードメイン─ PR |
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「アル」とは韓国語で「卵」、「タン」は漢字で「湯」と書き、「スープ」のことです。直訳すると「卵スープ」になりますが、この「アル」は魚の卵を意味するそうです。鶏の卵は「タルギャル」と呼ぶそうです。
この魚卵ですが、通常は、「タラコ」を使うようです。いろいろなお店で食べましたが、タラコが基本で、辛い味付けのスープ料理でした。行列ができていたお店のアルタンは、タラコがたっぷり入っていて、そのほかにも貝、魚など、様々な海産物が入っていて、とても美味しかったです。
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天津飯(てんしんはん)は、天津丼とか蟹玉丼などとも呼ばれている料理ですが、細かい内容は地域や店によって違うようです。中国の料理のように思われているかもしれませんが、日本で生まれた料理で、中国にはありません。
一般的には、刻みネギ、干し椎茸、カニの身や海老、塩などを加えた溶き卵を中華鍋やフライパンで混ぜながら焼き、深めの皿や丼などの食器に盛った御飯の上にのせて、さらに、その上に片栗粉でとろみをつけたあんをかけた料理です。
玉子に入れる具だけでなく、アンも地域によって大きな差があるようです。静岡県浜松市より東の関東圏では、酢に加えてトマトケチャップを使うことが多いようです。このため、赤い色の少し酸味があるアンになります。
一方、静岡県浜松市より西の関西圏では、醤油を使ってアンを作ることが多く、薄茶色の場合が多いようです。この他にも、玉子焼きの上に透明な塩味のアンをかけたものや、アンが無い場合などもあるようです。また、彩りにグリーンピースを乗せるとか、刻みネギを乗せるとか、いろいろなパターンがあるようです。
かに玉丼と呼ばれている場合は、玉子焼きに蟹肉(最近では、カニカマで代用している店もあるようです。)が入っていることが前提です。このカニタマには、中国の広東料理に「芙蓉蟹肉」という料理があり、この料理が元祖に近いのかもしれませんが、中国では、この料理を御飯の上に乗せて食べることはないですし、「天津飯」と言う名称の料理も存在しません。
どうやら名前の由来だけでなく、その発祥も謎のようです。現在、知られている天津飯の発祥には、来々軒説と大正軒説があるようです。来々軒説は、1910年に尾崎貫一が浅草で創業した大衆的な中国料理店「来々軒」を発祥とするものです。
来々軒は、1944年(昭和19年) に尾崎家の息子3人が出征したため、浅草の店を閉店しましたが、戦後の1945年(昭和20年)に三代目の主人である尾崎一郎が、東京駅の八重洲口に新たに来々軒を出店しました。この時、銀座の萬寿苑からコックを呼んだそうです。ある時、客から「何か早く食べるものを作ってくれ」と言われた時、このコックが「蟹玉(芙蓉蟹肉)」を丼御飯に乗せて、酢豚の餡を応用した甘酸っぱい醤油味の餡をかけた料理を作り、「天津芙蓉蟹肉飯」と名付けて提供したそうです。これが天津飯の始まりだとする説です。この説では、この料理名が長すぎて、やがて「天津飯」になり、広まっていった、ということになりそうです。この来々軒は、東京ラーメンの草分けだったそうですが、尾崎一郎には後継者がなく、1994年(平成6年)に廃業となったそうです。
一方の大正軒説では、大正時代に大阪城近くの馬場町に山東省出身の人が中国料理店「大正軒」を開業したものの、戦後で食料不足だったため売り物がなく、天津の食習慣であった「蓋飯(皿に盛った御飯の上におかずを乗せた料理)」を元に、天津で多く捕れていたワタリガニを使った蟹玉を御飯の上に乗せて、さらに上から餡をかけた「芙蓉蟹蓋飯」という料理を作ったそうです。しかし、蟹肉は高かったため採算が合わず、大阪湾で採れたサルエビ(トビアラ)に代えて、名称も「天津飯」と変更したそうです。さらに、当時は卵も入手難だったため、天津から輸出されてきた小さなサイズの鶏卵を使っていたとのことです。
この大正軒説は、大阪の料理人の間で噂されているようですが、真実味が薄いように思います。この元となる「大正軒」という店自体の存在が怪しいですし、「戦後で食料不足だった」という設定も分かり難いです。昭和であればともかく、大正時代は、戦争もあったにせよ、むしろ継続して発展している時代で非常に活気があったように思えるのです。また「サル海老」に変えただけで、いきなり「芙蓉蟹蓋飯」が「天津丼」に変わる理由も不明ですし、意味が分かりません。いろいろな話が混ざっているように思います。
さらに、発祥の店は不明であるものの、名前の由来として「天津の米」を挙げるものがありました。その説では、昭和の物資不足の時代に、中国の天津産の「小站米(シャオチャンミー)」という米が品質が良いことで有名だったそうです。この米をわざわざ使って、蟹肉入りの卵焼きを乗せた丼料理という意味で、「天津芙蓉蟹肉飯」という料理名があった、という説です。この長い名称が省略されて「天津飯」と呼ばれるようになり、広まったというものです。
この説は、来々軒の説の名前の裏付けとしたら面白いですが、単独では説得力にかけると思います。物資不足の時代に、わざわざ美味しいことで有名な「天津の米」が手に入るのであれば、それだけで客が呼べると思います。日本人の味覚からすれば、物資不足の時代に、わざわざ「美味しい米」にあんかけの玉子焼きなどの料理を乗せることはないと思います。美味しくない米であれば、あんかけなど、濃い味付けの料理を乗せて食べるのは、ありだと思いますが。
ネットで分かる情報からは、天津飯の発祥は、来々軒説が正しいように思います。来々軒という中華料理店(主にラーメン屋さん)は、全国各地に広がっていると思います。もちろんネーミングが良いといことで真似をしただけかもしれませんが、ラーメンや天津飯なども真似をしているかもしれません。真似をする時に、わざわざ長ったらしい名前をつけるとは思えませんので、真似をする段階で、多くの店が「天津飯」あるいは、「天津丼」というネーミングをつけていって、広まったのではないでしょうか。謎が多く、かつ中国にはない中華っぽい料理、いろいろな地域で味わってみたいですね。 ブログランキングに参加しています!応援お願いします! → ![]() Salley Special Web Site NTTPCのレンタルサーバー |
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小麦粉で作った薄い正方形の皮の中に、豚ひき肉、みじん切りの野菜、調味料を加えたアンを包んで蒸した料理です。中国全土で広く食べられている料理ですが、地域によって呼び方が違うそうです。北京では「焼麦」、山西省では「梢梅」、湖北省では「焼梅」、浙江省や江西省では「焼売」といった具合です。北京のシュウマイは、山西省から伝えられたと言われています。北京ではシュウマイを「焼麦(shao-mai)」といいますが、これには山西省の「梢梅(shao-mei)」の音が訛ったのだという説と、シュウマイの上のヒダが麦の花が綻びるのに似ているからだという説があります。
焼売の起源は不明なようですが、元の時代(1279~1368年)には、既に食べられていたようです。元代の頃のシュウマイは巾着形で、先端は花のひだのようになっていたそうです。
1799年の「清俗紀聞」という書物には、図が載っているそうです。また、1872年の「湖雅」という書物に初めて、その名が記されているそうです。
正確な情報は分からないものの、15世紀頃(室町時代)、日本に伝来したようです。1799年の「清俗記聞」という文献には、「餃子」という名称で、焼売の絵が描かれたものが載っているそうです。
日本でシューマイといえば、「豚挽肉のシュウマイ」が最も有名で、それに次いで「海老シュウマイ」くらいの知名度が高いかも知れません。もちろん、椎茸、葱、生姜などの野菜や薬味も入れますが、中国のシュウマイと比べると種類が少ないと感じます。
中国のシュウマイは、非常に多くの種類があります。北の人々はもち米シュウマイが好きだそうです。河南では切餡シュウマイ(形が咲いている牡丹の花に似ているシュウマイ)、安微では有鴨油シュウマイ(アヒルの油シュウマイ)、杭州では牛肉シュウマイ、江西では玉子シュウマイ(ふわふわの焼き玉子にシュウマイの具を包んで作ったシュウマイ)、山東臨清ではジンギスカンシュウマイ(ラム肉)、蘇州では三鲜シュウマイ(三鲜とは豚肉、魚介類、干ししいたけの事)、広東ではレバーシュウマイや牛肉シュウマイ、広州では蟹シュウマイなど、各地方に独自のシュウマイがあり、食べられています。
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「クル」は「牡蠣」のことで、「ジョン」とは「魚介、肉、野菜などを、小麦粉を水で溶いたものと一緒に焼いた料理」で、日本のお好み焼きに似た料理です。日本では、一般的に「チヂミ」という名称で知られているようですが、韓国では「ジョン」と呼ばれています。
「クルジョン」は牡蠣、1個ずつのジョンですが、「クルパジョン」は、普通のジョンのように大きなジョンです。ここで「パ」とは、「ネギ」のことです。一般的なジョンは、ネギを使ったパジョンなので、これに牡蠣を加えたジョンが、「クルパジョン」ということになります。
実際には、お店によって違うとは思いますが、牡蠣だけでなく、イカやエビなども一緒に入っている場合が多いです。このため海産物を使った「ヘムルパジョン」と呼ばれることもあります。「ヘムル」とは、漢字で「海物」と書き、海産物を表しています。
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